ルアンの最後の旅


 日本語教室に来ているルアン君が、4月にベトナムに帰る。安曇野のキノコ栽培の工場で農業の技能実習生として働いてきて、この春、三年間の期限が来る。ほとんど休みなく働いてきて、日本という国の旅はまったくできていない。帰国準備の数日間、やっと実習が終わって休みができる。これが彼らの現実だ。別の大手の企業で実習してきて3年前に中国に帰った女性たちは、慰安を兼ねた研修旅行に会社が企画して連れていってもらった。けれど農業実習生は栽培と収穫が仕事だから、毎日残業も含めて休みのない状態が続き、帰国前の数日の休みだけが日本を知る自由な旅ができる。そのときに、中国人実習生の一人は富士山に登ってきた。東京で実習している友だちと合流して、夜行登山をしてご来光を仰ぎ、すぐさま下山して帰ってきた。帰国の日の朝、彼からその話を聞いたときは、そのバイタリティに驚嘆した。また、ひとりで上高地を歩いてきた実習生もいた。ぼくは、行きだけ沢渡まで車で送ってやった。帰りは、彼はバスで松本に出てJRで帰ってきた。穂高の眺めが美しかったと言った。
 ルアンは、最後に京都へ行きたい。
「京都へ行きたい? うーん、京都のどこ?」
「キンカク、ギンカク」
金閣寺銀閣寺かあ」
 そこはぼくも外から見ただけで中に入ったこともない。彼は京都がどんな都市かまったく知らない。インターネットを見て、そこがいいと思ったのだろう。会社の従業員の一人が、いっしょに車で行ってもいいと言ってくれているという。これを聞いて、日本語教室で指導をしている女性陣から声が出た。
「桜シーズンですよ。混むねえ」
「車で行ったら市内に入れないよ」
京都市内に入る前に、どこかへ車を駐車しておかなければねえ。渋滞にはまりますよ」
「列車で行っても、日帰りは無理だし」
 おまけに列車で行くには費用もかかる。宿泊するには宿をとらねばならない。
 先の日曜日、教室でぼくとルアンとで話し合った。彼は去年暮れの日本語能力検定試験でやっと3級を取った。
「京都以外の、ほかをさがしてみたらどう?」
 どんなところへ行きたいのかと、聞いていくと、日本の伝統的な町へ行きたいらしい。
「小京都と言われている高山はどうかな。そこならここから近い、日帰りができるよ」
 ぼくは日本地図帳を出してきて、広げた。
「ここが安曇野だね。ここがJRの豊科駅。高山はここだよ。小さな京都と呼ばれているんだよ。昔の街並みが残っているよ。もし時間があるなら、白川郷に行ってきたらいいよ」
 松本から車で山を越えれば、飛騨の高山だ。雪のアルプスが間近に見える。
「せんせい、いっしょにいこう」
 遠慮がちに彼は言う。どうも会社の人は行ってくれなくなったらしい。
「わたしがいっしょにかあ。うーん、まる1日だよ、時間がとれるかなあ」
 ぼくがマイカーで行く、長い山道、安房トンネルをぬけて行く、これはOKとは言えなかった。
「ひとり旅をしたほうがいいよ。出会う人と日本語で会話をするんだよ。もっともっと会話をしたほうがいいよ。ひとり旅はぜったいいいよ」
 ぼくの体験では、外国旅行でいちばん心に残るのは、ひとり旅だった。若者は一人旅をすべし。
「長野の善光寺もいいよ」
 そこならJRでもバスでも行ける。
 ぼくはルアンに、まず資料を集めるように勧めた。市役所、JRの駅、旅行会社など資料を得られるところへ自分で行って、話を聞いておいで。言葉に自信がなくても、ひとり旅に不安があっても、それをしていく中で自信が生まれてくる。
 それからぼくはインターネットで京都と高山を調べてみた。京都のゲストハウスなら3千円ぐらいから宿泊できる所もある。安曇野から京都までの格安のバスもある。高山も、日帰りできるバスが出ている。
 このことを彼に伝えてやろう。