ナチュラリスト・田淵行男の生き方 <2>

 田淵一家が安曇野疎開したのは、1945年(昭和20)7月、当時の西穂高村の、農家の蚕室だった。娘と息子は地元の女学校と中学校に転校する。そのころの安曇野を田淵がこう書いている。
 「野道を歩いても、草むらに踏みこんでも、疎林に立ち寄っても、粗野で新鮮で、みずみずしく、はつらつとした自然が息づいていた。掘り起こしたままの宝石の原石のように、未知への魅惑と無限の可能性を秘めて私に呼びかけた。‥‥それは私にとって自然への第二の開眼ともいえる稔り多い年月であったし、とりわけ蝶と野草の豊かさは私を有頂天にした。晴れた日には家にとどまってはおられなかった。一歩敷居をまたぐと、そこから美しい野草の王国がひろがり、蝶の宝庫が扉を開いて待ち構えていた。
 私は扇状地に広がる落葉松林の一角に豊かなヒメギフチョウの棲み家を見つけて、七年を通い続け、その生態をまとめあげたし、また烏川の川原がアシナガバチの根城になっていたのを知り、これにも七年の年期を入れてその生態を写し撮ることができた。そればかりか安曇野の背後につづく常念、蝶ガ岳に棲む高山のチョウにまで、牧を拠点に探究の手を伸ばした。安曇野一円は、私にとって尽きることのない教科をそろえたすばらしい自然の教室であったし、題材に事欠かぬ魅力に満ちた自然観察のフィールドであった。」
 戦後すぐの安曇野にはそれほども豊かな自然が残っていた。そのころ、ぼくはまだ小学生だったが、住んでいた大阪の南河内の自然も実に豊かだったから、田淵が移住した常念山麓の牧の自然は想像に難くない。牧は、あの喜作新道を開いた小林喜作の住んでいたところである。大正時代、牧の猟師だった喜作は、中房温泉から燕岳、大天井岳を経て槍ヶ岳に至る新縦走路「喜作新道」を三年かけて開いた。今も牧地区は古い面影を残しており、毎年草競馬が行なわれている。少年騎士が駆ける姿は楽しい。ネズミ大根という下の方が太くなる「牧大根」が特産で、ぼくも漬物用に作ったことのある辛味大根だ。
 田淵は自然豊かな牧に住んで、チョウの研究に没入する。やがて研究は高山蝶に広がる。
「私にとって高山蝶は、未知という点ではヒマラヤの雪男とまったく同じスリルが感じられたし、最も好きなものだっただけに、いやが上にも闘志が湧いた。‥‥
 この地史の落とし子たちに安らかな旅をつづけさせねばならぬ。」
 これはもう熱烈なチョウへの愛情だ。田淵は高山蝶にニックネームを付けていた。常念山脈には高山蝶が9種類いた。ピンクと黄色、青白がかれんなミヤマモンキチョウには「山の娘」、地味なタカネヒカゲには「はい松仙人」、喪服を着たようなベニヒカゲは「憂愁夫人」、気ぜわしく飛び、またもとのところに戻るタカネキマダラセセリは「草原の巡邏兵」、クモマベニヒカゲは「草原の放浪者」又の名「白い山脈」、ミヤマシロチョウは万年雪の小さなかたまりを連想させる「氷の蝶」、コヒオドシは「小型戦闘機」、オオイチモンジの幼虫は「やせたライオン」。
 そして田淵はそのニックネームで呼んでいた。なんともほほえましいではないか。
 小さな命への愛情というのは、知と相関関係にあるように思う。その生命を知ることが深まると愛情も深まる。一つ知れば愛情が一歩前進する。研究が深まるにつれて想像力に羽が生え、生命の歴史を心に感じとれるようになる。それは愛情の深化でもある。
 近藤信行もこんなふうに、田淵を見ている。
氷河時代からの遺留生物として、環境の変化に耐えてつつましく生き抜いてきた高山蝶に、彼は心から愛情を注いでいる。」
 そして高山蝶への田淵の次の表現から、田淵自身の心の中を想像もしている。
<水陸の分布の変動により退路を断たれて故郷へも帰れず、さりとて温暖にも馴致できず、やむなく高地へ閉じ込められたこれらの小動物は、いわば地史の落とし子、洪積世の遺児とも言える文字通りの貴重な天然記念物である。また生態的に言うと、適応性の弱い種、普通の言葉で言うなら融通性に乏しい、生活の劣った仲間、いわば蝶仲間の斜陽族といったところ、また異郷の下で途方に暮れている移民といった印象さえ私は受けている。>     
 この表現は、「ある意味では彼自身の自己投影とも読める」と近藤信行は書いている。
 これらの小動物は、今や次第に追い詰められ、生存そのものが危ぶまれてきている。チョウの棲み家が破壊され、食草が絶滅しつつあるのだ。さらに無断でチョウを採集するものが絶えない。
 安曇野には、やがて、戦地や満州からの引き揚げ者が移り住んで開拓が進んだ。そして経済成長にともなう開発が始まる。それは小さな生物の環境が破壊されていく過程でもあった。安曇野は次第に見る影もなくなっていった。田淵はそのことを「安曇野挽歌」につづるのだが、それが近藤信行の著の終章になっている。