校歌を歌う会があった

 我が家からそんなに遠くないところに住んでいる、安藤さんという一人の市民が発起人になって、校歌を歌うイベントが生まれた。発端は、市制施行10周年の行事にふるさとの校歌を歌ってみようやというアイデアだった。
 安曇野市には15の小中学校があり、それぞれ学校には校歌がある。地元住民のコーラスの会や市民合唱団でその校歌を歌い、ふるさとを振り返り、ふるさとを讃え、ふるさとを見つめ直そうというのが企画のねらいだった。ぼくの所属している居住区のコーラスの会は隣の地区の会と合同して、三つの校歌を歌うことになって練習を重ねてきた。
 そして本番がやってきた。2月27日、堀金サブアリーナが会場。会場はほぼ満員だ。
 午後一時に、県歌「信濃の国」の全員合唱で始まる。これが6番までの合唱で、5、6番は歌ったこともない歌詞だった。そして順次校歌の発表。ぼくらの出番は中間の休憩の後になっていた。出演する合唱団やコーラスの会は9団体。服装をきちんとそろえた合唱団もある。
 中休みの後、作曲家・飯沼信義さんの講演があり、つづいて10周年記念に新しく制定された飯沼さん作曲の市歌を全員で合唱した。飯沼信義さんは安曇野出身の、桐朋学園大学の名誉教授でもある。講演のなかで飯沼さんは、こんなことを話された。
 私はこれまで全国60の校歌を作曲してきた。安曇野市では5校の校歌を作曲した。校歌の作詞や作曲は、いろんな思いが湧いてくるもので、こんな自分が校歌をつくってよいものか、と葛藤もした。谷川俊太郎さんもそんな思いを書いておられた。詩人の三好達治は校歌はつくらなかったそうだ。
 そういう話だったと思う。ぼくはその部分が特に心に残った。全国60の校歌を作曲したと聞いたときは、いったいこの人は、どういう考えでどんな気持ちで、校歌をつくっているのだろうか、音楽家としては大家だから、校歌の依頼もくるのだろうけれど、何の疑問も抱かずに依頼を引き受けるとはどういうことだろうか、といぶかしく思う気持ちが湧いた。しかしその後の話から、飯沼氏の人間としての謙虚さと音楽への希望が感じられ、この人も素朴な人なんだなあと思えて、その後、飯沼氏指揮で市歌を歌うときには、気持ちにこだわりはなかった。 
 市歌の全員合唱が終わって、いよいよぼくたちの出番になった。女性は15人、男性は6人、それぞれ異なる服装で、ぼくはセータ―姿、ステージに立つと、隣地区の金井さんの指揮、ご近所の丸山佐保子さんのピアノで、堀金小学校、堀金中学校、穂高北小学校の順に歌う。ステージで歌うと、自分の声もみんなの声もよく聞こえない。出来栄えはよくわからなかったが、まず自分の声はよく出せたと思った。
 家に帰って、三好達治は校歌についてどんなことを思っていたのかなと、詩集を調べてみた。すると、石川淳が解説のところに、こんなことを書いていた。

 <三好の苦渋の顔を一度見たことがある。小学校の校歌を作ることを頼まれたという話が出たときであった。校歌はどうも困る。小学校の子どもがうたう歌だからね。その歌をつくったのが、どんな人間かということになると、おれは困るんだ。酔っ払って変なこともできない。三好はそう言った。そういう人間であった。しかも、酔っ払ってもおそらく変なことはしまいと思われるような人間であった。そのときの校歌の依頼はことわったらしい。小学生の歌はあえて作ろうとしなかった三好は、バカな大人のための、はやり唄はどうか。これは作ろうにも作れなかったに決まっている。そう言っても偏狭というのとはちがう。>
 

 三好達治の人がらなんだなあ。三好がつくった校歌があればよかったのになあと思う。
 中野重治がつくった校歌の詩を青年のときに先輩教師から教えられたことがある。さすがに中野重治だとそのときは感動した。重治は福井県出身で、それは地元ふるさとの学校の校歌だった。
 さて谷川俊太郎はどうなんだろう。飯沼氏が講演で話されたことはよくおぼえていないが、谷川俊太郎のこんな詩を見つけた。



        私が歌う理由(わけ)


   私が歌うわけは
   いっぴきの仔猫
   ずぶぬれで死んでゆく
   いっぴきの仔猫


   私が歌うわけは
   いっぽんの けやき
   根をたたかれ 枯れてゆく
   いっぽんの けやき


   私が歌うわけは
   ひとりの子ども
   目をみはり 立ちすくむ
   ひとりの子ども


   私が歌うわけは
   ひとりのおとこ
   目をそむけ うずくまる
   ひとりのおとこ


   私が歌うわけは
   一滴の涙
   くやしさと いらだちの
   一滴の涙