富士山に登ってきたハップ君


 「富士山、登ってきたよ」
とハップ君は教室に入ってくるなり言った。
「えーっ、頂上まで行ってきたの?」
「そう」
 なんと頂上まで登ってきたのだと言う。その証拠、彼はポケットからスマホを取り出し、人差し指で写真を写し出した。先日の日本語教室でのことだ。
 5合目で食事したという店の写真、山道を登る人たち、8合目の山小屋で若い女性と並んで撮った写真、二人仲良く笑顔で写っている。
「これ誰だい?」
「山小屋の前で案内をしていた人」
「へえ、君はベトナム人であることを言ったの?」
「いえ、言わなかった。8合目の山小屋のまえで、焼き肉して食べた」
「えーっ、焼き肉? 肉や火はどうしたの?」
「コンロかついで行った」
 家庭用のガスコンロと肉を持って行ったのだ。
 頂上からの写真には雲海が写っていた。
「雲海だね。雲の海」
「はい、雲の海」
 夕方から6人で登り始めた。6人はベトナム人の実習生、安曇野から参加したのはハップひとり、東京で実習していた若者が呼び掛けた。
 ハップは豊科駅からJRに乗り、東京に着いて計画した実習生のところに泊まり、翌日5合目まで電車とバスで行った。夕方、5合目から夜の山道を歩いて8合目に着いたら4人がダウンした。たぶん高山病の症状が出たんだろう。そこで焼き肉を食べ、ホップともう1人が頂上に向かった。その途中で雨が少し降った。
「よくまあ登ったねえ」
「ちょっと胸が痛かった」
 見せてくれた写真の中の一枚はご来光だったが、雲のベールがかかってうすらぼんやりと赤かった。一晩中山道を息を切らせて歩き、日本で一番高い山に登った。ベトナムにはない高さだった。日本に来た限りは、富士山に登って、故郷へのおみやげにしようということだった。
 一月前にこの計画を聞いたとき、山の経験も知識も技術もない、トレーニングもしていない。それでいきなり夜行登山をしてご来光を見るなんて無謀だ、と思ったから、その日の日本語は富士山と登山について勉強した。
「100メートルの高さを上がると、気温はどれだけ下がるか」
「100メートルで0.6度下がるとしたら、海抜0メートルから3800メートル上がると何度気温は下がるか」
「そこへ風が吹いてくる。風速1メートルで体感温度はどうなるか」
 こんな質問を出しながら、質問の日本語を理解させて、問いの答えを考えさせた。さらに雨が降ればどうなる、防寒着、着がえ、雨具は持っていく必要があること、ザックはあるのか。富士山の5合目から上は岩石ごろごろだぞ、夜行登山なら灯りが要るぞ、ランプを準備しろよ、もし山小屋に泊まることになれば、費用はこれくらいだ、などいろいろと注文を付けた。なにより気がかりだったのは、6人全員が山を知らないものばかりで、呼びかけた東京の実習生がリーダーとしての役割ができるのかということだった。
 結局彼らは実行した。ハップは登頂に成功した。二日間寝ないで登る強行軍だった。20代前半の若いエネルギーと情熱のなせるわざだ。
 ハップはこの9月4日に帰国する。3年間の農業実習を終えての帰郷だ。次の30日の日曜日は、日本語教室でお別れ会をする。
 一昨年帰国した中国人の実習生も、夜間登山をして登頂してきた。彼の場合はたった一人の登山だった。日の出を待つ間、頂上はほんとに寒かったと、帰国の日、安曇野を発つとき言っていた。彼の場合、着の身着のままの登山だった。登山した日はやはり帰国一週間前だった。あの日、もう一人の中国人実習生は上高地を散策してきた。ぼくはその実習生を朝早く上高地行きのバス乗り場がある沢渡まで車で送ってやった。
 帰国前のわずかな休暇を、ある人は京都へ、ある子は東京へと、最後の日本の記念のページを飾る体験の旅を夢見る。しかし、それを実現する人は少ない。もっと3年間のあいだに、受け入れ企業や機関が企画して、日本を知ってもらい体験してもらう旅行を彼らに贈れないものかと思う。安価な労働力として利用するばかりでなく、実習生が学び体験して帰国した後、彼らの胸に芽生えるものをこそ重視すべきだと思う。彼らは庶民の「日本と母国をつなぐ架け橋」になるのだから。