戦争を招き寄せている


 次の文章、いつの時代のものか。
 「この田舎にも朝夕配られてくる新聞の報道は、私の最も欲しないこと、つまり戦争をさせようとしているらしい。現代の戦争をあやつる少数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び彼らにだまされたいらしい人たちを私は理解できない。おそらくかれらは、私が比(フィリピン)島の山中で遇ったような目に遇うほかあるまい。そのとき彼らは思い知るであろう。戦争を知らない人間は、半分は子どもである。」
 この文章は大岡昇平が復員後3年目に発表した小説「野火」の一部、生きながらえて帰還したときの想念の断片である。「野火」は自らの戦争体験を詳細につづっている。その終わりの部分でこの文章が現れる。
 この「野火」を塚本晋也が映画化し、今年発表した。塚本が述べている。
「国会審議を聞いていても、戦争の現場で痛い目にあった人たちの存在は忘れ去られているとしか思えません。その痛みの実感をどうにかして取り戻さないと、『戦争は平和である』的な政府の論法にズルズル引きずられてしまいます。『戦争は絶対悪だ』という線を手放してしまえば、限定的だとか後方支援だなんていう境目は、いずれ押し流されてしまいます。
 戦争は絶対悪だというのは、戦後日本の当然の前提であったはずです。それがいつの間にか、大きな声でそう言うことをためらわせる時代というか、無言の圧力が生まれている。だからこそ、戦争の愚かさを圧倒的に描いた『野火』を、この時代にぶち当てたい。そうしないと気が済まないという使命感のようなものに駆られ、自主制作に踏み切りました。
 『これが正義だ』と教えられて人を殺してしまったとしても、それを正義だとは言いきれない正気の目線が、頭の上の方で常に自分を見ているはずです。それに無理に逆らわないこと。原作の『野火』の主人公も、戦争で死ぬのが当たり前だとはまったく思っていなくて、いつも状況から一歩距離をとっている」
 大岡昇平が、1970年に、「戦争」というタイトルで語っている書きおろしがある。(九藝出版)
アメリカによるベトナム戦争が続いていたときだ。その中の一文。
 「戦争というものはいつでも、なかなか来そうな気はしないんですね。人間は心情的には平和的なんだから。しかし国家は心情で動いているのではない。戦争が起きた時にはもう間に合わないんだ。強行採決につぐ強行採決、なんにも議会には計らないで、重大な外交、内政問題をどんどん休会中に決めてしまう今の政府のやり方を見ていると、いつどういうことが行なわれるか分からない。権力はいつも忍び足でやってくるんです。
 防衛白書でも、『徴兵は行わない』という条項を発表前に、はずしたでしょう。もし、ここで5万でも、10万でも海外派兵するということになれば、そのあとへスポッと穴が開きますね。実際に戦闘があって、消耗を補充しなければならないという事態にならなくても、軍隊というものは外で戦うと同時に、内乱を防止する用もあるので、予備の兵力がどうしても必要なんで、徴兵ということになるのは当たり前なんです。ぼくはそういう戦争になる経過を見てきた人間として、兵士として、戦争の経験を持つ人間として、戦争がいかに不幸なことであるかをいつまでも語りたいと思っています。」
 大岡は、我々は「なんとかなるだろう」と考えがちだ、それはエゴイズムだと述べている。楽観は、危機感の緊張や焦りのストレスをはずす働きもある。しかし、「なんとかなるだろう」は、思考を停止することだ。その間に、重大なことが進んでいる。
 半藤一利が、こんな発言をしている。(朝日新聞 9月19日)
 「国民が安保法案に相当反対しても、安倍首相は関係ないものとして扱うだろう。今年4月、安倍政権がアメリカ政府と約束を交わしてしまったからです。自衛隊は、今後は集団的自衛権も行使しながら極東以外の地域でもアメリカ軍に協力しますと、そう約束しています。憲法が骨抜きにされるだけでなく、極東を対象にする日米安保も骨抜き、これが法案を国会で審議する前に起きたことです。恐るべきはこうした日本政府のやり口です。アメリカから協力を求められた時に断れる主体性があるとは思えません。」
 戦後70年間と70年後の現在と、一貫して、政治には国民に隠していることがあり、そういう陰謀的な外交、内政で国の運命がきまっていくのかと思うと、恐ろしいことだ。