戦記

 新聞の「論壇時評」で、高橋源一郎大岡昇平の小説「野火」について書いていた。「野火」の映画ができたらしい。今公開中だという。映画監督は塚本晋也で、彼は1990年代に映画化を志したが資金が集まらず、制作断念の寸前まで行った。それでも、監督自ら主人公の田村一等兵を演じて制作を敢行した。映画化まで20年以上の年月がたっていた。20年の月日を経て制作に踏み切ったのは、現代という時代に勃興してきた「狂気」に対する危機感だった。
 「野火」の戦場はフィリピン、レイテ島。大岡昇平自らの体験を書いている小説の描写は詳細克明。戦争とはどんなものか、それを後世の人びとに証言することを企図した表現であろう。

 その何日か前に、元BC級戦犯だった飯田進のニューギニア戦記について記事が出ていた。敗戦後34年たって、飯田はニューギニアでの旧陸軍部隊による慰霊祭に参加した。そのとき抱いた疑念が飯田を戦記執筆にかりたてることになった。大本営の無謀な作戦命令に従い、補給もなくジャングルの中で飢えと病で倒れていった戦友の死に意味はあったのか。その死の責任は誰が負うべきだったのか。
 戦記を書くべきか、書くべきではないのか。狂気の戦場での体験は、平和な時代を生きる人々に理解されるだろうか。多くの帰還者たちは戦場体験を語らず、心に秘めたままこの世を去っていく。葛藤の末、飯田は戦記を書き、語り続ける。
 飯田の新聞記事のなかに、こんな一節がある。
「飯田は、今の時代の空気に、かつてのスガモプリズンで嗅いだのと同じきな臭さを感じている。‥‥『我々は地獄の釜の縁に立っている。踏み外せば奈落の底にまっさかさまだ』と言う。」

 小説「野火」のなかに、こんなシーンがある。

「いくら草もヤマビルも食べていたとはいえ、そういう食物で、私の体がもっていたのは、塩のためであった。雨の山野をさまよいながら、私が『生きる』と主張できたのは、その二合ばかりの塩を、注意深く節しながら、なめてきたからである。その塩がついに尽きた時、事態は重大となった。
 少し前から、私は道端に見出す死体の一つの特徴に注意していた。海岸で見た死体のように、臀肉(でんにく)を失っていることである。
 最初私は、犬か鳥が食ったのだろうと思っていた。しかしある日、この雨季の山中に蛍がいないように、それらの動物がいないのに気づいた。雨の晴れ間に山鳩が鳴き交わすだけであった。ヘビもカエルもいなかった。
 誰が死体の肉を取ったのだろう。――私の頭は推理する習慣を失っていた。私がその誰であるかを見抜いたのは、ある日私が、一つのあまり硬直の進んでいない死体を見て、その肉を食べたいと思ったからである。
 しかしもし私が古典的な『メデューズ号の筏』の話を知っていなかったら、あるいはガダルカナルの飢兵の人肉喰らいのうわさを聞き、また一時同行したニューギニアの古兵に暗示されなかったら、はたしてこの時私が飢えをいやすべき対象として、人肉を思いついたかどうかは疑問である。……」

 高校や大学、若者たち、すなわち戦争を知らない世代が、戦争を知るためにはこのような小説を読むことだ。歴史を知る、人間を知る、社会を知る、本当のことを知るということは、このような小説をみんなで読む、そういう授業から生まれてくる。
 しかし、映像や文章をもってしても、ほんとうの戦場は伝えきれない。おぞましい死体の臭気、心おののく恐怖感、飢餓感、それらは描けない。それらを感じ取るのは読む人の想像力である。

 高橋源一郎は、こう書いている。
「(『野火』は)単に戦争文学の傑作であるだけでなく、およそ『文学』と呼ばれる人間の営みの頂点に属する作品だ。‥‥狂気が覆い尽くす戦場にあって、正気でありつづけるために、他の選択の道はなかった。‥‥戦場にあって正気でありつづけること自体が、また別の狂気であることを作者は知っていた。」

 狂気を自覚できれば狂気を阻むことができる。しかし、狂気の集団の中にいれば、狂気を自覚できない。自分も同じように行動すれば身は安全と考える同調性の強い集団では、そしてまた命令に忠実に動かねばならない統制集団では、狂気は維持される。
 かくて狂気は自覚されず、拡大していく。