朝の電話

朝早く、電話がかかってきた。
消え入りそうな、しゃがれた声で言う。


ねえ、もうだめかもしれないのよ。
食べられないし、
歩けないし、
目も見えなくなったよ。
もう、わたしだめみたいだから、
あと、お願いするね。


お別れのあいさつみたいだ。
すっかり気落ちして力がない。
どうしたの?
家に行ってみたら、お姉さんが出てきた。


「来てくれたよ」
お姉さんは寝床に言って伝えている。
ミヨさんは起きてきた。
歩けるじゃ。
ミヨさんは玄関にぺたりと、カエルのようにお尻をおろして話しだした。
話せるじゃ。
けさ起きたら、足は痛くて動かんし、目の前ぜんぶ真っ暗だし、
何も食べられないし、
もう終わりが来たと思ったの。
それでお世話になったにいさんにお別れしとこうと思ってね。

ぼくを「にいさん」と呼ぶけれど、ぼくはミヨさんより10歳は若い。
今は目が見える。
起きた時は真っ暗でね。
耳の遠いお姉さんが横に座った。
これまで姉妹いっしょに朝の散歩をしていた。
ミヨさんの姿が見えなくなったのは数日前、お姉さんひとり犬のマミを連れて歩いていた。


ミヨさんは話しだした。
いくつも医院をかえて診てもらってきた。
「でも治らないだ。もう来なくていいと言われるじゃ」
看護師と医師が向こうで小声で話している声が聞こえた。
「もう来なくていいのに」
薬はどれだけ飲んでるの?
ミヨさんが薬手帳をもってきた。
歩けるじゃ。
開けて見ると、11種類の薬の名前と効能が書いてある。
この前、うちの勝手口に来て、腎臓はどこにあるの?と家内に聞いたときは、
腎臓が悪いと医者に言われたからと言っていた。
でも薬手帳には、腎臓の文字はない。
高血圧に効くとか、痛み止めとか、おしっこを出すとか、
いろいろな症状全部に薬を出して、11もの錠剤を飲ませている。


奥の部屋の窓が全開で、風がひゅーひゅー入ってくる。
寒かないの?
寒くない。
ご飯食べたほうがいいよ。
食べられない。
水分とった方がいいよ。
トマトジュースいつも飲んでるだがね、今日飲まない。
体、寒いのはよくないよ。温めたほうがいいよ。
ね、なんか、食べましょ、飲みましょ。
牛乳、温めて飲みましょ。
ぼくは、ミヨさんの手首に指を当てて脈をみてみた。
あれ、右手、脈ないよ。
左手、指をさんざん動かして、脈を探り当てた。
うん、動いてる、大丈夫だ。正常だよ。


昨日は外出したね。
いっぱい買い物してきただ。
車運転、あぶないよ。
でも、車なかったら生活できないよ。
事故起こしたらどうするの? 
私、車に乗ったら、体がしゃっきりするだよ。
これから買い物したかったら、買ってくるし、店に生きたかたらぼくが運転するよ。


薬どうする?
医者どうする?
運転どうする?
買い物どうする?


一度大きな病院へ行って診てもらったほうがいいよ。
よく話したねえ。
こんなに話したんだから、元気なんだよ。
あと10年は生きるよ。


そして、今朝、お姉さんがマミ連れて散歩してきた。
ミヨさんどうですか。
話をいっぱいして少し元気になったよ。
ご飯も食べたよ。