ゲーテと立原道造の「旅人の夜の歌」


      旅人の夜の歌
                  立原道造   

   降りすさんでいるのは つめたい雨。
   私の手にした提灯はようやく
   暗く足もとをてらしている
   歩けば歩けば夜は限りなくとおい。


   私はなぜ歩いて行くのだろう。
   私はもう捨てたのに 私を包む寝床も
   あったかい話もともしびも――それだけれども
   なぜ私は歩いているのだろう。


   朝が来てしまったら 眠らないうちに。
   私はどこまでも行こう‥‥こうして
   何をしているのであろう。


   私はすっかり濡れとおったのだ 濡れながら
   悦ばしい追憶を おお それだけをさぐりつづけ‥‥
   母の あの街の方へ いやいや闇をただふかく。


 この詩は、昭和十年ごろにつくられた。立原が21歳の時だった。温かい寝床を捨てて、降る冷雨の中、夜の道を煩悶し苦悩しながら歩き続ける。
 ドイツの詩人ゲーテにも「旅人の夜の歌」という詩がある。ドイツ文学者、小塩節がこの詩についてエッセイを書いている。


    旅人の夜の歌

  峰々に
  憩いあり
  梢を渡る
  そよ風の
  あとも見えず
  小鳥は森にしずもりぬ
  待て しばし
  汝(なれ)もまた憩わん


 31歳のゲーテは、秋の数日間、鉱石を求めて山々を歩き回り最後の日の夕方、ワイマール西方のキッケルハーンの山の狩人小屋に泊まった。ゲーテは、1775年、小さな貧しいワイマール公国に招かれ、思いもかけぬ国政をまかされた。ゲーテは、何年も国家財政の立て直しのためにさまざまな努力をした。軍備の縮小半減、林業振興、道路行政の近代化、学校教育の充実、鉱山開発など、国を再建するために意欲を燃やした。
 その日、森の狩人小屋に荷を置くと、ゲーテは山頂に夕陽を見に行った。峰々に夕べの憩いがあった。ドイツの心臓と呼ばれていたチューリンゲンの森から炭を焼く煙が数本立ち上っていた。秋の日は急速に暮れる。さえずっていた小鳥も静かになった。
 ゲーテの日常は、国の財政問題、党派の争い、人間関係の複雑さなど、腹立たしく困難なことばかりだった。
 待て しばし。お前にも、やがて安らぎの時が来るだろう。この人生と世界にも、やがて憩いがやってくるだろう。ゲーテは狩人小屋の板壁に、鉛筆でこの詩を書きつけた。


 それから五十年、ゲーテは81歳を迎え、この山へ登った。あの時の狩人小屋が建っていた。小屋の板壁には、五十年前に書きつけた詩が残っていた。詩を読んだゲーテは、夕暮れの山頂に登り、岩角に立った。
   待て しばし
   汝(なれ)もまた憩わん
 今は、やがて来る永遠の憩いをゲーテは予感する。
 翌1832年ゲーテは「もっと光を」の一語を残し永遠の眠りについた。