「日本人は民主主義を捨てたがっているのか?」

 「日本人は民主主義を捨てたがっているのか?」という本がある(岩波ブックレット)。著者は、ニューヨーク在住の想田和弘氏。ドキュメンタリ―の映像をたくさん制作し発信している。彼は、アメリカから日本を観ていて、もしかしたら日本人は民主主義を捨てようとしているのかもしれない、と思うようになった。彼はいくつもの事象をとらえながら、その疑念をこの本で示している。
「僕の脳内では、民主主義に対する危機を察知するセンサーが作動し、アラームが鳴り始め、その音は止むどころかどんどん大きくなりつつあります。ところが、そのアラーム音が聞こえている人は、どうも日本人のごく一部に限られているようです。のっぴきならない危険が迫っているのに、大部分の人はセンサーが起動せずに平気な顔をしているように見えるのです。」
 アメリカに住んで、世界を歩き、日本を観察すれば、祖国の危機が見えるという。ぼくも政治の動きとともに国民の意識と動きがあやしくなってきたと思う。
 2013年7月29日、麻生副総理がこんな発言をした。
 「いつの時からか騒ぎになった。騒がれたら中国が騒ぐとならざるを得ない。韓国は騒ぎますよ。だから静かにやろうや、というんで、憲法もある日気がついたら、ドイツのさっき話しましたけれども、ワイマール憲法といういつの間にか変わってて、ナチス憲法に変わってたんですよ。誰も気が付かないで変わったんだ。あの手口学んだらどうかね。もうちょっと、ワーワーワーワー騒がねえで」
 この発言は内外で問題になった。麻生副総理がナチスを肯定しているとは思えないが、安倍政権が虎視眈々とねらっているのは憲法を変えることだから、なんとか巧妙に策を弄して、目的を果たしたいという思いが、こういう発言になったのだろう。何としても憲法を変えてやるぞという魂胆、それは着々と実行に移されている。麻生氏の言う通り、日本は「いつのまにか気がつかないうちに、戦争のできる国になっていた」という事態がやって来はしないか。
 安倍氏が首相になってから、憲法を変える手は次々と打たれてきた。
・2010年5月18日、憲法改正のための国民投票に関する手続きを定める「日本国憲法の改正手続に関する法律(憲法改正国民投票法)」を制定し施行。
・2013年7月13日、安倍首相は「憲法9条を改正し、自衛隊の存在と役割を明記する」と発表。
・2014年4月1日、閣議で、「武器輸出三原則」を廃止し、武器輸出を原則解禁する「防衛装備移転三原則」を制定。
・2014年12月10日、特定秘密保護法制定。
・2014年7月1日、集団的自衛権の行使を容認する閣議決定
・2015年8月15日、戦後70年、安倍首相は、1995年8月15日の村山首相談話を根底から覆すか。
 村山談話とは、
「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ち無からしめんとするがゆえに、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からお詫びの気持ちを表明します。」

 麻生副総理の言うナチスドイツの歩みをたどってみる。
・1918年、 40人の政治サークルが生まれた。
・1919年、 それはドイツ労働者党として結成された。そこへヒトラーが入党。メンバーは64人になった。
1920年、 党綱領に、反ブルジョワ・反ユダヤ国粋主義、企業の国有化などが入れられた。
1921年、 ヒトラーナチスの議長になった。党内に体育スポーツ局が設立され、それは突撃隊と改称される。
・1922年、 実業家から献金が相次ぐ。ナチス党員は6000人になりナチス青年同盟も設立された。党勢拡大するナチに危機感を覚えた各州でナチス禁止の動きが拡大する。しかし不景気とインフレはナチ党や右派政党への支持を高めた。
・1923年、 突撃隊は、極右政党・義勇軍連合の有力な構成団体となり、ドイツ闘争連盟が結成される。突撃隊の軍隊化が進められ党員は35000人になった。ドイツ闘争連盟は中央政権打倒をめざして抗争を起こした。しかしドイツ闘争連盟のデモは警官隊によって鎮圧され、ヒトラー、党員らは逮捕、ナチ党と突撃隊は非合法化、解散になった。ヒトラーは禁固刑を受ける。
1924年ヒトラーは釈放され、ナチス再結成。党集会に4000人が集まった。しかし弁舌巧みで人を引き付け扇動するヒトラーは危険視され、一年間の演説禁止措置を受ける。ヒトラーは著書「我が闘争」を発売。ヒトラーとナチ党の支持が広がる。再結成された突撃隊の下部組織に「親衛隊」が設立された。党員は5万名になった。
・1925年、ナチ党青年部にドイツ労働者青少年団が結成される。
・1926年、ナチ青少年団は「ヒトラー・ユーゲント」と呼ばれ、メンバーは700人になる。
・1928年、 国会選挙でナチス12人当選。
・1930年、 ナチス党107議席を獲得し、第二党に躍進。
・1932年、 ヒトラーが大統領候補として出馬、30%以上の票を集めた。国政選挙でナチ党は全584議席中230議席を獲得し、第一党になる。党員120万人。
・1933年、 大統領ヒンデンブルクは、ヒトラーをワイマール共和国(ドイツ)の第15代首相に任命しヒトラー内閣が発足。これをもってワイマール共和国は崩壊。ヒトラーは全権委任法を国会で承認させ、立法権を国会からヒトラー政権に委譲、議会審議なしに政府が法律を制定できるようにした。さらに政党禁止法によってナチ党以外の政党を禁止。州政府にはナチ党幹部を送り込み、民主主義的な地方自治を停止させた。かくして、ワイマール憲法に定められた基本的人権や労働者の権利も停止。国会議員はナチス党員のみとなる。党員390万人。
・1934年、 党内外のヒトラー反対派を一斉に粛清、独裁権力を確立する。ヒトラー国家元首法により、大統領権限を獲得、ついに国家元首となった。
・1936年、 「ヒトラー・ユーゲント法」制定。「ヒトラー・ユーゲント」は公式に「国家機関」となり、10歳から18歳までの青少年が強制加入させられる。
・1938年、 ナチス党員・突撃隊がドイツ全土のユダヤ人住宅・商店・シナゴーグを襲撃・放火(「水晶の夜」)。「ヒトラー・ユーゲント」は700万人になる。「ヒトラー・ユーゲント」の団員は3週間の訓練に参加することが義務づけられ、集団生活を通じてナチスの世界観や共同体精神をたたき込まれた。
・1939年、 第二次世界大戦
・1943年、ヒトラー・ユーゲントから志願兵を募り、17歳と18歳のユーゲントを選抜して、「SS装甲師団ヒトラー・ユーゲント」と命名され戦場に送られた。
・1945年、 ナチス党員850万人。敗戦。

「傍目八目(おかめはちもく)」ということわざがある。第三者にはものごとの是非、利・不利が当事者以上によく分かるという意味で使われる。日本を離れて海外に留学したり住んだりすると、日本の姿がよく見える。想田和弘氏の厳しい慷慨の念には、祖国への愛と悲しみがにじみでている。
 <「日本の政治体制はこれからもずっと民主主義であるに違いない」という信憑は最近ぼくのなかで少しずつ崩れています。民主主義にとって「天敵」のような政治家が民主的な手続きで急速にのし上がっていくという不条理な光景、ぼくはその様子をアメリカから眺めながら、1930年代にナチスドイツ国民の支持のもと急激に台頭していった様を連想しました。かつてドイツで起きた現象が現代日本へ舞台を移して再現された映画か何かを観ているような感覚を覚えました。同時にワイマール憲法下のドイツのように日本の民主主義も案外簡単に「自殺」しうるものなのではないかと、にわかに疑い始めたのです。
 民主主義とは自立した個人の存在を前提とします。民衆に主権があるということは、民衆こそが責任主体であり決定権があるということを意味します。民衆の一人ひとりが、政治家の仕事の基本的な良し悪しを判別できる程度には、情報を集め分析し政策を理解し選択できる能力を維持していなければなりません。そのためには私たちは死ぬまで勉強を続けなければならないし、絶えず責任の重みを感じ続けなくてはならないのです。それは民主主義の世の中に生きる人間の宿命であり、民主主義から受ける恩恵の代償とも言えます。>