俘虜収容所で演奏されたベートーヴェン


 ベートーヴェンの「交響曲第九」を、日本で初めて演奏したのは、ドイツ人捕虜であった。
 2004年、中国の青島(チンタオ)でぼくは2カ月暮らした。青島は1897年(明治30)にドイツが占領し、ドイツの租借地になったことから、その旧市街の周辺を散策すると、今なおドイツ人の建てた大きな洋風民家が風雪に耐えて残っている。今はそこに中国の庶民が住んでいた。
 1914年(大正3)、第一次世界大戦が起きると、日本は日英同盟を結んでいたから、連合国側(英・仏・露)に加わって参戦、青島のドイツ軍をやぶり占領した。第一次世界大戦は、ドイツの敗北となり、日本は勝利国の側にたった。ドイツ軍の捕虜約5000人は、日本に送られ、うち1000人は1917年から1920年まで徳島県の板東俘虜収容所に入れられた。
 この収容所がドイツ文化の発信地になった。日本の明治維新では先進国ドイツから多くのことを学んで近代国家建設に取り入れてきた。その歴史関係が捕虜の処遇に大きく影響したのだろう。収容所長の松江豊寿の父は旧会津藩士であった。薩摩・長州の官軍を相手に東北列藩が戦った戊辰戦争に敗れた会津藩士は青森の厳しい辺境の地に移住させられた。朝敵とされて滅ぼされた会津の苦難の歴史、そのときの屈辱と悲哀が松江豊寿の心に受け継がれていたのかもしれない。松江収容所所長は捕虜を人間として遇した。捕虜の自主性を尊重し、外出にも寛容で、「森の民」と呼ばれるドイツ人捕虜たちは森を歩き山にも登った。捕虜たちは元が民間人の志願兵だったから、自分たちの持っている仕事の技術を喜々として発揮した。マイスター制度をもつドイツ人はすぐれた技術文化をもっていた。酪農、ウイスキー醸造、野菜栽培を行ない、家具や楽器をつくり、時計を修理した。写真を写し、印刷を行ない、新聞までつくった。鍛冶屋、床屋、靴職人、仕立屋、肉屋、パン屋など、自らの技術を生かし作ったものを住民に販売した。ドイツの本場のパンの焼き方やハム・ソーセージの製法、さらにビールの醸造法を地元民に伝授した。
 ドイツ人捕虜は、楽器を演奏し音楽を楽しみ、オーケストラをつくって地元住民のためにコンサートを催した。
 そして1918年(大正7)6月1日、捕虜の演奏家たちは、ベートーヴェンの「第九交響曲」を演奏したのだった。日本における初めての「第九」であった。
 1918年11月3日、彼らの祖国ドイツで、11月革命と呼ばれる大衆蜂起が起こった。カイザー(皇帝)は廃位、ドイツ帝国は倒れた。これをもって第一次世界大戦終結し、1920年、板東俘虜収容所の捕虜たちは、板東収容所の思い出を胸に抱いて祖国に帰っていった。
 1919年、彼らの祖国ドイツでは画期的なワイマール憲法が制定され、議会制民主主義を旨とするワイマール共和国が樹立されていた。
 日本でも大正デモクラシーが花開いていた。1922年(大正11)、日本は青島を中国に返還した。
 だが歴史は暗転していく。大正デモクラシーの裏側で、軍部は力を増し、日清・日露、第一次世界大戦の勝利を体験した日本人は、日本は一等国の強国になった、戦えば勝つと信じるようになっていた。
 1923年9月、関東大震災が起こる。災害の修羅場の中で、デマが流れ、自警団が結成され、多くの朝鮮人、中国人、社会主義者が殺された。ここから日本は戦争への道を歩みだす。民主主義は弾圧され専制国家、軍国主義の暗い道へ日本ははまりこんでいった。
 それはドイツでも同じだった。1928年、ドイツ・ナチス党が台頭する。1933年には、ヒトラーの政権が生まれ、ワイマール共和国憲法によって成立した基本的人権のほとんどは停止された。
 1937年(昭和12)日中戦争勃発。
 1939年(昭和14)ドイツ軍はポーランドに侵攻、第二次世界大戦が始まる。
 1941年、米英と全面戦争に入る。


 1998年2月7日、長野オリンピックの開会式においてベートーヴェン「第九」小澤征爾の指揮で演奏された。それは、世界の5大陸・6ヶ国・7か所で連携して、それぞれの国の演奏と一つになり、映像は世界中に中継された。

 板東俘虜収容所の記憶はドイツと日本にいまもなおしっかりととどめられている。