「自分はどう思う?」


 鶴見俊輔が、こんなことを書いていた。
「大阪の言葉で、『自分はどう思う?』というたずねかたがあって、‥‥」
 「隣人記」を読んでいた時、えっ、それ大阪の言葉なんか?と、大阪出身のぼくは思った。つづきを読んでいくと、
「大阪の言葉で、『自分はどう思う?』というたずねかたがあって、私はそれにとまどうことがあったが、それは、相手に対して、もうひとつの自分をみとめるという接近の仕方である。相手にとって、そこにいる『自分』からは、このことがどう見えているかと問うているのである。一般的、客観的、科学的に、このことがどうであるかをかっこに入れて、あなたという私にとって、このことはどうかを問う。そこでもし相手が心をひらいてこたえるなら、その私にとっての、彼自身のこのことのイメージがあらわれる。そういう会話は、質問する人自身が、自分にとってのものごとのイメージを大切に感じて自問自答している人でないと、あらわれにくい。 河合隼雄のきく力は、そういう場所でやしなわれた。」
 この文章は、河合隼雄について書いているところに出てきた。はーっ、この言葉、大阪人の言葉だとは考えたこともなかった。
 確かに大阪で、意見のやり取りをしていて、
「自分はどう思う?」
と問うたり問われたりする。鶴見はこの言い方が大阪人の言葉だと言う。
 自分のホンネはどうなんや、一般論を聞いてるのと違うねん。自分の中や。
 大阪人は相手のホンネを引き出そうとするとき、タテマエやとりつくろった言い方や、ボスや権威の意見でなく、自分・私の意見を問うことがよくある。
 鶴見は、河合隼雄のきく力のすごさを言う。
「彼のきく力は、人生のへこんだ部分を重んじるところから来る。」と言う。
 かつての大学紛争のさなか、学生部長の河合は学生との団体交渉の席に出た。河合隼雄は心理学者でカウンセリングも行なっていた。長時間に及ぶ大学側と学生側との団交の途中、河合はカウンセリングの約束があることを告げて団交を中座して出ていった。学生たちはそれを認めた。人生にゆきづまって、彼にカウンセリングを依頼し自分の問題を究明しようとしているクライエントに対する忠誠を河合は重んじた。そしてそういう河合の心を学生たちは認めた。
 鶴見は河合をこう書いている。
「それぞれの私の底にあるイメージをお互いの了解の面に浮かび上がらせて自由に交通させるもう一つの科学(もはや科学ではない科学)の力をはげます。そういう人であるように、河合隼雄は私に見える。」
 自分にあい対している人の内部にあるものに聴き入るとき、その相手にとって私的なものがおたがいの場に現れてくる。そのような、きく力を持つ人として、この人がおり、その活動は、普通の科学と言われてきた領域の垣根をこえる。
 河合隼雄のことをそう書いた鶴見俊輔も、河合隼雄ももうこの世にいない。