日高六郎逝く


 日高六郎さんが亡くなられた。ニュースが新聞に載っていた。なんと101歳、ここ10年、20年、日高さんについて報道で見ることがなかったから、生きておられるのか、あの世へ行かれたのか、ぼくの頭の中では過去の人になっていた。
 日高六郎さんがぼくに身近だったのは1960年代から1970年代、全共闘運動、ベトナム戦争水俣病闘争、沖縄返還運動などが、盛んなころだった。
 ベトナム戦争では、米軍による北爆停止を米国務長官に訴える文書を評論家の加藤周一さんと提出した。アメリカ軍の兵士に「戦争を拒否して脱走をしよう」と、ベ平連の支援のもと横須賀に停泊中の米空母へ行ってビラを配ったりし、それに応じて兵士が実行に移すと、彼らを日本国内にかくまい、極秘裏にスウェーデンに脱走亡命する援助活動を作家の小田実や哲学者の鶴見俊輔らと進めた。一時期、脱走兵を自宅にかくまっていたとかも聞いたことがある。
 69年の東大紛争で、大学内に機動隊を導入した大学当局に抗議し、「無力さを自ら罰する」と東大教授を辞職した。
 社会学者として評論家として反戦、教育、公害、人権問題などに取り組む姿勢と語る言葉は、民衆の姿勢と言葉だった。
 「思想の科学研究会」を通じ、鶴見俊輔の勧めもあって京都精華大学教授になった。
 あの頃、日高さんや鶴見さんの言論と行動力から、社会人として生きる考え方をずいぶん教えられた。
 次つぎと、戦後の「魂」が消えていく。