教員採用汚職

これは大分だけのことではないと思う。
大分県の教職員採用と管理職登用試験の汚職
閉鎖的権力構造のあるところには、このような汚職が必ず起こる。
人事権を持つ者は次第に権力を持ち、それが特定の人物に集中する。
実権を持つ者は、権力の行使を秘密裏に行い、そこに生まれる親分子分の関係が権力を支える。
先輩後輩の縦の構造が強いところには、このような汚職がはびこる可能性が高い。


大阪市の教育汚職に司直の手が入り、
逮捕者も出た事件は、1970年だった。
このころは大阪の学校に根深く存在していた強固な学閥組織を利用して、
教育委員会の学閥のボスに賄賂を贈り、教頭・校長になっていくという構造だった。
それにメスが入った。
職員組合は、教育委員会に対する激しい闘争を展開し、
同時に自己批判も行った。
それは、多くの教師がいくつか存在していた出身大学別の学閥組織に加入していたからだった。
学閥組織は同窓会のような形をとっていたが、
そこに加入して先輩教師から目をかけてもらうと、いつか管理職への道を世話してもらえた。
そうして先輩後輩のピラミッドが強くなり、忠誠をつくす教員は、
教育実践の能力がどうであれ、校長になっていった。
そこに金銭が動いた。
職員組合は、教師自身が加盟している学閥から脱退するという運動を現場を舞台にくりひろげた。
そして教育委員会との大衆団交も行い、責任を追及した。
おおきな闘争だった。


それから年月が経つうちに、
またもやいぶかしく思うことが多くなった。
どう考えても、現場で見てきて、教育理念や実践経験も能力も優れているとは思えない教員が、教頭や校長になっていく。


多くの自治体に巣くっているものだと思う、たぶん。
人事権を持てば、そこから人が変わりだすことがよくある。
人間というものはそういう弱点を持っているのかどうか分らないが。
実権を持つ者に、すり寄っていく者がいる。
甘い汁が吸えるところに、寄ってくる者がいる。
そして取り巻きの親衛隊ができ、仲間意識が育つ。
かくて悪の行使に歯止めをかける清廉潔白の士は、姿を消し、
構造的な権力の行使が始まる。


権力構造が存在することを大衆教員はうすうす知ってはいる。
それを自分たちが利用する場合もあるから、
付け届けを慣例のように、当たり前としている風土もある。
上昇志向を満たすためにそれを行使しても、罪の意識はさほど感じない。
そういう風土はまだある。