「鶴見俊輔伝」 <4>

f:id:michimasa1937:20061107074103j:plain

 

 鶴見俊輔が亡くなった夜、黒川創は、俊輔の息子で早大歴史学教授、鶴見太郎と二人、遺体をはさみ三人の布団を並べて寝た。

 そのときのことを黒川は書いている。

 

 「私は、一、二度、指先でほんのしばらく、この人の額に触れたが、自分のしぐさがひどく不自然なものと思え、それ以上はできなかった。なぜなら、私は、鶴見俊輔が他者との身体接触をしたがらない人だと、かねてから感じていたからだ。他人の肩をぽんと叩いたりするようなところを見たことがないし、米国人のように自分から握手の手を差し出すこともない。戦争中に、憲兵から殴られた話を書くときなどにも、『なぐられるということは、いやなことで、私は、体を他人にさわられるのでさえひどくまいってしまう。』といった書き方になる。」

 鶴見の死を発表しないでいこうとしたが、記者がかぎつけ、隠すことができず、記者発表をした。その席で、鶴見太郎が、こんなことを言った。

 「――父は、私が子どものころから、いろんなことを話すごとに、『おもしろいなあ』『すごいねえ』『いや、おどろいた』と、目を見張って、心底からびっくりしたような反応を示す人でした。ですから、大人というのは、そういう人たちなのだろうと思っていました。ところが、いざ外の世界に出てみると、世間の大人たちは、何に対しても、ほとんど無反応でいるということが分かって、ショックを受けました。そして、このギャップをどうやって埋めればいいのか、ずいぶん長く苦労することになりました。」

 鶴見俊輔多磨霊園の鶴見家之墓に眠っている。

 俊輔の姉の和子は、紀州の海に散骨してほしいと希望して、海に眠っている。

 「もしも彼という存在がなければ、この社会のありようは、いまとはいくらか違ったものになっていただろうか。ともあれ、彼に限らず、ほかに替えられない生き方の一つひとつがあったことで、今の私たちの世界は、かろうじて、このようなものとしてある。そこからしか、これについて問うことができない。」