キタさん、最後の闘い


 まったくキタさんという男は猪突猛進だった。
 大学山岳部の5人パーティで、春富士にチャレンジした。そのなかにキタさんとぼくがいた。1957年、御殿場の駅で降りると、米軍のMPがホームに立って巡邏していた。MPは背が高く、鋭いまなざしでホームを見渡している。小柄なキタさんの頭はMPの胸の高さにもならず、これぞ敗戦国の日本人だった。ぼくらはピッケルをキスリングザックの背に付け、古風な単板のスキー板を肩にかついで、その横を通り過ぎていく。MPの服装に比して、5人の服装は古色蒼然としたぼろ着、靴は米軍の放出品であった。
 駅を出ると、もう乗り物はない。ひたすら歩く。一合目まで歩くと雪が積もった山道になった。その日の行程は5合目にある無人の冬季小屋に入ることだった。重い荷を背負って森の道を登る。雪は次第に深くなっていった。夕暮れが近づいても5合目に至らず、3人が遅れ始めた。リーダーもその一人だった。元気だったのはキタさんとぼくで、3人はばてていた。
 ぼくらは先行して小屋に荷を運び、折り返してばてている3人のところまで引き返すとその荷を小屋まで運んだ。なんとか5人は小屋に入ることができ、一晩を明かした。
 翌日は頂上アタック。快晴だった。アイゼンを効かせ、ピッケルを突いて登った。8合目まで登ると上級生のリーダーは突然下山を宣言した。元気な二人は、納得ができなかったが、指示は絶対であった。
 御殿場駅まで下るとき、キタさんの猪突猛進が出現した。わき目も振らずまっしぐらに歩く。一合目まで下りて、駅に向かい、街中に入り、駅前へ左折する道を無視して、キタさんはトップを歩き、途中で気づいて引き返すという猪突猛進ぶりを発揮した。
 頑健そのもののキタさんとペアを組んで登る山の最初がこの富士登山だった。
 それから四季を通じていくつ登ったことだろう。槍・穂高連峰剣岳、白馬、鹿島槍、薬師、黒部川上の廊下、‥‥。
 黒部川の「上の廊下」完全遡行の計画を立てて、二人は3年間チャレンジした。それはいちばん深い印象を残した。針の木岳の大雪渓を登って峠を越え、飯と梅干だけで歩き、黒部に下りるとそこから未知のルートを探った。急流を徒渉し、下の黒ビンガ、上の黒ビンガ、底知れぬトロ(淵)を泳ぎ、絶壁をへつり、滝を乗り越え、藪をこぎ、黒部川イワナをつかまえてバター焼きにして食べ、台風がやってくると、金作谷の急峻な雪渓をキックステップで薬師まで登って脱出した。
 この3年間で、二人のトロの通過の技術が進んだ。初めはザックの中身を濡らした、次はザックをまるごと厚手のビニール袋に入れて濡れないようにして浮きにした、その次は、ザックのなかで防水をし、ザックを背負って泳いだ。、

 キタさんが、寝たきりになった。頸椎の一つが消滅して、歩くこともできなくなった。あの事故から40年、右半身不随の体で教壇に立ち、退職後も自力で機能を回復することを目指して歩き続けた、猪突猛進のキタさんがついに力尽きた。