大岡昇平「俘虜記」と「野火」2 銃を捨てる

「野火」の主人公、田村は銃を撃って女を殺した。何故撃ったのか、そのことを作者はどう描いたか。

 敗残兵の田村は山から下りて行って人家の中でフィリピン女性に出会い、マッチをくれ、と言った。女は田村を見て悲鳴を上げた。獣のような声で叫びつづけた。田村は衝動的な怒りにかられ、引き金を引いた。
 悲しみが湧いた。しかし後悔はなかった。この殺人は偶然なんだと田村は思う。女が叫んだから撃ったのだ。だが、それは動機ではあるが原因ではない。事故なんだと思う。
 田村は女を殺した家で塩を見つけ、それを奪った。塩は生きるために欠かせないものだった。田村はひとり、また山に戻っていく。日本軍のいたところへの道を、二度とそこへは戻らないと思った道を。悲しみが田村の心を領した。死んでいった女の死体が頭を離れなかった。川を渡る。田村は橋の上に腰を下ろして考え込んだ。
 銃は月光に濡れて黒く光った。田村は吐き気を感じた。

 「すべてはこの銃にかかっていたのを、私は突然了解した。あの時私の手に銃がなかったら、彼女はただ驚いて逃げ去るだけですんだであろう。銃は国家が私に持つことを強いたものである。こうして私は、国家に有用であると同じ程度に、敵にとっては危険な人物になったが、私が孤独な敗兵として、国家にとって無意味な存在となった後も、それを持ち続けたということに、あの無辜の人が死んだ原因がある。
 私はそのまま銃を水に投げた。ごぼっと音がして、銃はたちまち見えなくなった。孤独な兵士の唯一の武器を棄てるという行為を馬鹿にしたように、あっけなく沈んだ。
 私を取り巻く野が、不意に姿を変えた。月光の行きわたった美しい夜景が、腰の剣一つを頼りに越えていかねばならぬ広さと映った。遠方から敵を斃(たお)しうる武器を失った私に、空間は広がった。
 私は後悔したが、あきらめていた。私は歩きだした。月光の行きわたった野と靄(もや)の間を、せかせか歩いていった。
 私は孤独であった。恐ろしいほど孤独であった。」

 田村は、そして思う。私は、はたして生きるに価(あたい)するだろうか。しかし、死もまた死ぬに価しないとすれば、やはり生きねばならない。田村は、自分が何者かにあやつられているように思う。
 それから山の中で何人かの戦友に出会い行動を共にする。暗黒と静寂と泥濘の逃避行がつづいた。戦友の死体がいくつも転がっていた。田村は、一人の無辜の人を殺してから、人間の世界に帰る望みを禁じていた。
 その逃避行の中で、人肉を食うことを決行しようとする。田村は剣を抜いて死体に剣を突き刺そうとした時、突然思いがけないことが起こった。剣を握った右手を左の手が握ったのだ。すなわちもう一つの自分が阻止したのだ。この時の自分の行動を誰も見ていないのを確かめてはいたが、「私」は誰かに見られていると思った。その誰かの眼が去るまで、この姿勢を壊してはならないと思う。
 声が聞こえた。
 「汝の右手のなすことを、左手をして知らしむるなかれ。」
 この声。この声はいずこより来たるや。
 「『起てよ、いざ起て』と声は歌った。私は起ち上がった。これが私が他者により、動かされ始めた初めである。私は起ち上がり、死体から離れた。離れる一歩一歩につれて、右手を握った左手の指は、一本一本離れていった。」