「夕映えのなかに」読後感想文 <1> 


 
 吉田氏が北アルプスの麓、安曇野市に移住され、公民館での日本語教室等のご支援をいただき、私にロマンを語られた背景が、この小説を読んで今さ らながらよくよく理解できました。ドラマチックな展開で読みやすく、立派な自分史でもあると思います。小中学校の先生方に広くお勧めしようと思います。  (安曇野市教育長  橋渡勝也) 

  主人公万太郎の出生から生涯の軌跡への描写を通じて、先生の気持ちを多少なりとも伺い知ることができたように思います。戦中から戦後の長きにわたる、日本社会の実相を、淀川中学、矢田中学、矢田南中学、加美中学、平野中学で、教師として経験され、その中での教育的課題を取り上げられたその歴史描写は、文化史、思想史としても貴重なお仕事であると感じました。 (大阪教育大学学長 岡本幾子) 

 中学時代の記述が、自分の記憶や思い出として浮かんできました。教育とは? 本来あるべき教育を模索され、研究会等にどん欲に参加され、自己啓発意欲もすごいです。先生はフットワ-クが軽く、ACTIVEですね。住井すえさんや高石ともやさんに手紙を出したり、ギリシャマケドニア・トルコ・中近東に旅をされたり。ペルセポリスは私も是非行きたいと永年思っています。 (淀川中学での教え子 萬代和道) 

 私が 掃除当番をサボって、友達と遊んで家に帰ったら、先生が私の家の前で待ち構えていらっしゃいました。先生は笑顔で「ヤナの分の掃除残してあるからな」っておっしゃったんです。すごい衝撃でした。私はその後残りの掃除をしました。ある時、男子二人と一緒に六甲のロックガーデンに連れて行って下さいました。当時 ロッククライミングなんていうものを全く知らず、ゴツゴツしたかなりハードな岩山で、横で走り回る猪がいました。男子はやや荒れている子で、なぜ私がそこにメンバリングされたのかは不思議でしたが、厳しい自然体験をさせて下さったことに対する先生の温かい気持ちがとても印象に残っています。  (加美中学での教え子 梁川絹江) 

 私も戦時に大阪市内で生まれ、焼け跡で同じような遊びをした記憶がある。教職に就いてからは1学年16~18学級という巨大進学校の勤務が続いて、万太郎の悩みとは違った悩みがあった。著書の中に、教育に関する何人の人物が登場したか。著作や実践等、実に盛りだくさんで、まるで現代教育史の辞典の感がする。正確な知識として再認識を行う糧となるだろう。著作に際してこれらの整理に頑張られたことを強く感じる。  (大学山岳部当時の仲間 下江国男) 

 

 役所の先輩も「夕映えのなかに」を読んでくださり、「教育の叙事詩とでも言うのでしょうか。タイトルが、私の好きなシューベルトで、びっくりしました。『エミール』は、私もせっせと読みました」という感想をいただきました。萩尾先生の奥様にも本を贈りました。「『萩さん』が何度も出てきて、とても懐かしくなりました」という返事をいただきました。私の淀川小学校時代の担任だった池田先生にも贈りました。驚いたことに、私の弟は淀川小学校5、6年のときの担任が、小説に何度か書かれていた万太郎の担任、北西先生だったそうです。弟は先生がトーストにお砂糖を載せて食べられるので心配したそうです。とうとう糖尿病で亡くなられました。 (淀川中学時代の新聞部員 丸山光子) 

  私は小学校教員でした。私はクラスのボスになり、児童と一緒に遊び、束ねながら、好き勝手なことをしていました。斎藤喜博の研究会、板倉聖宣の仮説実験授業研究会、日本作文の会にも入って、全国公開授業をしたこともあります。賢治の作品を授業で劇化したり、光太郎の詩の授業もしました。吉田さんは本格的な登山家で、生徒と自然の中に入って、生を感じ、宇宙を感じておられたんですねえ。  (東京 和田雅実) 

 「バチコの生活ノート」を思い出します。私は卒業して高校生になってからも、「生活ノート」を書いて、弟にもたせて先生にとどけていたんですねえ。すごい迷惑、お恥ずかしい。昔、「野火」の感想文を泣きながら書いたことも思い出します。今の小学生には、読書感想文の宿題がないんですよ。子どもの本嫌いを無くすためだって。あかんがな。   (加美中での教え子 ばちこ)