光の春


 早朝、氷点下の野の雪は硬く締まって、五月のアルプスの稜線の雪のように歩いても靴が沈まなくなった。道も田んぼも何もかも、白い平原になり、気の向くままにどこでも雪上を歩きまわる。ランも雪の野を自由に走り回り、ときどき雪に鼻を付けて匂いをかいでいる。あちこちに残るキツネの足跡は長い点線を描き、肉球の形がくっきりしている。ランの足跡はキツネよりもいくぶん大きい。はるか昔の記憶だが、ぼくは子どもの頃、少年雑誌に連載していた南洋一郎の小説「緑の金字塔」を、毎月本が書店に並ぶと買ってきて、胸躍らせて読んでいた。アマゾン川流域の原始林を舞台にした冒険小説で、崖っぷちの細い岩棚を馬で通過していく場面が出てくると、ぼくは冷や冷やしながら読んでいた。馬は前足で安全を確かめながら歩き、不安定な岩塊に前足がかかると、音を立ててそれは絶壁の下へ落下していく。そうして馬は無事に岩棚を通過し、ぼくはほっと安堵した。前足が確認したところに後ろ足が来るから安全が確保されるということを、少年のぼくはその時知ったのだった。別の小説だったが、オオカミの足跡は一直線になるということが書かれていた。野生動物は、あらゆるところを歩くから、危険に備えた歩き方になり、足跡がほぼ一直線に続いていく歩き方になっているというのだった。それは本当のことなのか、ぼくはオオカミの足跡は見たことがないから分からないが、キツネの足跡はほぼ一直線になっている。ランの足跡は、ほんの少しずれるが、一直線に近い。ランは、新雪のときはしきりに鼻を雪のなかに突っ込んで、雪の下の土の匂いをかいで、何かを見つけ出そうとしていた。同じようにキツネが鼻を突っ込んだ小穴があちこちにある。キツネもこの雪では、食べものもとれなくなり、夜中に雪上を歩きまわって、雪の下の餌を探しているのだ。
 数日前、夜明けの雪上をランと一緒に歩いていくと、少しガスが出ていて、遠くがぼんやりかすんでいた。朝日はまだ昇っていなかった。そのとき、白一色の世界にかすかに動く黒いものが目に入った。100メートルほど離れたところを走り去るキツネだった。ランもその黒い点に気づいた。ランはオオカミのようにすくっと立って、身動きせずにキツネの黒い点を目で追う。ランのなかの野性が現れた一瞬だった。キツネはいくらか走っては立ち止まり、こちらを振り返ってはまた走る。雪をかぶったビニールハウスの近くでキツネは辺りをうろうろし、農小屋の横でこちらを向いて腰をおろした。ガスがうっすら流れていく。キツネの姿はお稲荷さんの神社にある石の像そっくりだった。キツネはこちらを観察していたが、やがて姿を消した。どうもその辺りに、ねぐらがあるようだった。
 その翌朝、唐沢さんの息子さんがゴールデンレトリバーのカイちゃんを連れて、雪道を歩いてくるのに出会った。カイちゃんはランよりも身体が大きい。挨拶を交わしてキツネの話になった。
「夜にキツネが歩きまわるもんで、カイがうるさく吠えるんですよ」
 カイちゃんの犬小屋は家の外の庇の下にあり、そこで夜を明かすから、キツネが近くに来るとすぐに気づく。そして吠えるのだ。
 朝日が昇ってくると、少しの間だったが、空中をキラキラ光りの微細な粒が浮遊しているのが見えた。ダイヤモンドダストのようだった。氷点下10度を下回ると、空気中の水蒸気が凍る現象で、細氷とも言う。朝日が雪田を照らし始めると、一面の雪の表面が、光の粒を撒き散らしたようにキラキラ光る。
 一度ランが、左の後ろ脚を上げて、三本脚で立ち止まってしまったことがあった。ぼくの顔を見上げて、何か伝えようとしている。
「どうしたの? 痛いの?」
 足の裏の肉球を調べてみたがけがはない。少し歩いているうちに、ランはまた普通に戻った。痛かったのか、冷えてしまったのか、よく分からない。ランは何を訴えたかったのか、家に帰って家内に話すと、足が凍えたから帰りたいと訴えていたのではないかと言った。
 家内が、節分の巻きずしの具にするからホウレンソウを採ってほしいと言うから、雪を掘って採った。雪の下でぺしゃんこになっていたが、緑の葉はみずみずしかった。ゆがくと、濃厚な冬のホウレンソウの味がおいしかった。
 軒のツララの長さが40センチほどある。日が暮れた頃、ドカンと大きな音がした。外に出て見ると、屋根の雪が落ちたのだった。
 天声人語に、モスクワでは二月を、「光の春」と呼ぶという話が出ていた。
「モスクワの予報官から贈られた本には、荒涼とした冬からきざし始める『光の春』が美しく語られていた。」
 まったく二月の光は春の光である。