新美南吉の二つの詩 


写真:チロルの村

 1932年(昭和7)、19歳で童話「ごんぎつね」を書いた新美南吉は詩も作っていた。詩は、南吉が世を去ってから見出され、詩集として刊行された。24歳、小学校代用教員、25歳、高等女学校の教員を勤めた。そのころ作った詩は、没後に「墓碑銘」と名付けられて出版された。南吉が詩を書いたのは、大陸での戦火が拡大していくときだった。

        歌

   夕闇の中から
   やさしい子守唄が聞こえてくる。
   風呂からあがって、
   裸でリンゴをたべてると、
   木立の向こうから
   細いやさしい歌声が聞こえてくる。


   いつか聞いた歌だ。
   誰かが歌った歌だ‥‥。


   そうだ、私の生徒、
   三月、静岡へうつっていった
   あの黒い眼の少女がうたった子守唄だ。


   とんとんとろりこ、
   とんとろり。


   あの少女はそう歌い、
   私は悲しく聞いていた。
   別れもまぢかい日だったが。


   私はちゃんと知っていた。
   私たちはあまり年がちがうので、
   私の言葉はあの子に通じないことを。
   あの子の言葉は私の心に届かないことを。


   だが、あの歌を
   しみじみあの子が歌ったとき、
   それはあの子の魂のしんに触れ、
   私の魂のしんに触れ、
   それらは一つのリトムをうった。


   それならばあのとき、
   私はあの子を理解しなかったと、
   どうしていえよう。


   とんとんとろりこ、
   とんとろり。


   美しい子守唄よ、やさしい旋律よ、
   私と私の生徒だったあの少女の
   お互いの魂を共鳴させえた不思議なるものよ。


   わたしはここに、たまゆらの深さを知り、
   生命の価値を知り、
   この世を悲しくも美しいものに思う。


   懐かしい子守唄がまだ続いている。
   夕闇の向こう、木立の向こうから
   ほそく、あえかに聞こえてくる。
   やさしく甘く聞こえてくる。
           (昭和十四年四月七日)



        終業のベルが鳴る

   終業のベルが鳴る‥‥。
   生徒らはランドセルを背負い
   みないってしまう。
   おくれた小さい生徒も
   汽車にのりおくれるとでもいうように
   両腕をつきあげてランドセルを背おい、
   帽子をひったくって
   いってしまう。


   あの子たちはどこへ帰っていくのだろう。
   あんなに大急ぎで、
   何があの子たちの魂を抱きとり、
   その魂の孤独をなくすのだろう。
   ぼくは朝、
   こころに昨日の疲れを覚えながら、
   昨日のうれいの続きを
   ひきずりながら一日を始めるのに、
   あの子たちの魂を
   何が日ごと、清新にするのか。
   生徒らが帰ってしまって、
   足音もしなくなった部屋に、
   私はぽけんと残っている。
   小鳥たちがさったあとの
   一本の樹木のように。
         (昭和十四年六月十六日)


 南吉の詩は静かに静かに、心にころがして味わう。南吉の心そのままに。
 新美南吉は昭和十八年三月二十二日に、30歳の生涯を閉じた。独身だった。彼は膨大な遺稿を巽聖歌に託していた。生きているとき、南吉はそれを出版することは考えていなかった。巽聖歌は遺稿を整理し、まず童話全集を発行した。つづいて詩集を出した。