賢治の「雨ニモマケズ」の詩が書かれていた手帳に、もう一つこんな詩が書かれていた。
「十月二十日」と題された詩。
この夜半 おどろきさめ
西の階下を聴けば
ああ またあの子が咳をしては泣き
また咳をしては泣いております
その母の 静かに教え なだめる声は
あい間あい間に 絶えず聞こえます
あの子の部屋は 寒い部屋でございます
昼は日が射さず
夜は風が床下から床板のすき間をくぐり
昭和三年の十二月
私があの部屋で 急性肺炎になりましたとき
新婚のあの子の父母は
私にこの日照る広い自分らの部屋を与え
自分らはその暗い
私の四月病んだ部屋に入っていたのです
そしてその二月
あの子は 女の子にしては心強く
およそ倒れたり落ちたり
そんなことでは泣きませんでした
私が去年から 病ようやく癒え
朝顔を作り 菊をつくれば
あの子も一緒に 水をやり
時には つぼみある枝をきったりいたしました
こ九月の末 私はふたたび東京で病み
むこうで骨になろうと 覚悟していましたが
こたびも 父母の情けに帰って来れば
あの子は 門に立って 笑って迎え
またはしご(階段)から
お久しぶりでごあんすと
声をたえだえに叫びました
ああ今 熱とあえぎのために
心をととのえる すべを知らず
わがなぃもやと言って
眠っていましたが
今夜は ただただ咳き泣くばかりでございます
あなたに訴え奉ります
あの子は 三つでございますが
直立して合掌し
法華の首題も唱えました
いかなる前世の非にもあれ
ただ かの病 かの病苦をば
私に うつしたまわんことを
なんという悲痛な思いであろう。この詩は、賢治のいちばん末の妹、クニの長女フジへの祈りである。賢治が昭和三年に発病したとき、新婚のクニ夫妻は、日当たりのいい自分たちの二階の部屋を、賢治の病室に提供し、自分たちはそれまで賢治が起居していた薄暗い階下の部屋に移った。その部屋でフジが生まれた。今、そのフジが病んでいる。
この詩を書く前の八月、気候不順による稲作の心労を背負った賢治は、風雨のなかを駆けずり回って稲作を指導した農民を励まし歩いていた。長年の肉体の酷使が重なった賢治は肺浸潤になり、実家に戻って静養していたのだった。