画廊カフェ

 敬老の日に、村の合唱団「扇町コーラス」がデイサービスセンターで歌ってきた。高齢者40人ほどが座って静かに聞いてくれた。「いっしょに歌おう」の時は、7割ほどの人が声を出してくれた。歌っているぼくには皆さんの声は聞こえないが、口の開け方でその人が声を大きく出しているか、小さく口ずさんでいるのかが分かる。やっぱり歌は心を和ませ、心を開く働きがあると思う。
 終わってから合唱メンバーはテーブルに分かれて、皆さんといっしょにお茶をいただいた。
 「それにしても」という言葉がこの後にに続く。どうして「それにしても」なんかな。
 それにしてもこの人たちはどうしてこんなに口が重いのだろう。同じテーブルの人に問いかけてもすぐに返答がない。やっと返答があっても、そのあと会話が続かない。黙ってうつむくか、遠くを見ている。窓の外に人家の家並みが見える。
 40人もいれば、かなりがやがや話し声が起こるものだが、静かだ。デイサービスに来る人は、お風呂に入って、静かにここで過ごす。あまり他人と会話したり遊んだりしないのかな。ゲームをしたりテレビを見たり、創作をしたり、プログラムはいろいろありそうだが。
 縁側に座って、日向ぼっこをしながら時を過ごす老人、孫といっしょ庭で過ごす老人、というのは昔の話。この施設には縁側はない。孫もいない。保育所の隣に老人福祉の施設をつくれば老人と幼児が交流でき、老人も元気になり、幼児も愛情を受けることができたのに、そういう発想もなかった、
 高齢者はどんどん孤独になる。会話が少なくなる。歌わなくなる。
 

 翌日、コーラスメンバーの「画伯」が栗をどっさり持ってきてくれた。
 「庭の栗の木の実がたくさんとれたよ。」
 「画伯」の家は伝統的な安曇野の古民家だ。屋根に船の舳先のような装飾がついている。ぼくは何度か「画伯」に提案している。
 「この安曇野にはカフェ文化がないんだねえ。カフェにはいって、ゆっくりコーヒーを味わいたくても、それができないよ。どうしてかなあ。カフェは単にコーヒーをたしなむだけではなく、心を解いて、静かに思索したり、語り合ったり、本を読んだり、心を解放する場だからなあ。
 そこで提案なんだけど、『画伯』のこの古民家を、画廊カフェにしませんか。ご夫婦の創作を壁にかけて、絵を見てもらいながらゆっくりくつろいでもらえるカフェ、地元の人も旅の人も、ちょっと立ち寄りたくなって、ここでひととき過ごしていく、お年寄りも孤独な人も、ちょっと来たくなってやって来る、おいしいコーヒーの飲めるカフェ。
 ぼくが何度か行った、那須高原の『SYOUZO』というカフェ、看板も出していない、入口に小さな札がかかっているだけ、中に入ったらいろんなコーヒー豆が陳列棚に並んでいた、コーヒーオンリー、椅子やテーブルはどこからかもらってきたような古物、だから同じものがない、部屋の片側には詩集や画集が並んでいた、窓の外は雑木林、学校の教室の椅子のようなのに座って窓の外を眺めている若者がいた、心が落ち着くんだなあ、何とも言えない雰囲気があるんだなあ、いやされるんだなあ。
 安曇野の良さは、これからもっと減衰しますよ。景観もどんどん劣化しますよ。人間と人間がつながる文化が育たないと。そのことに気づかない、住民が。
 扇町区民の総会で、この春ぼくが提案したのは、区としてのビジョンがない、どんな地区にしていくかビジョンを語り合いませんかということだったんです。言葉足らずだったけど。だからオアシスをつくろうと。この地区をオアシスにするという考えの路線に、画廊カフェが思い浮かんだんです。
 『画伯』、考えてみませんか。」