「そこのSさん、熊にやられましたよ」
朝、ゴミステーションへゴミを出しに行ったら、 I おばさんがNおばさんと話していて、ぼくの顔を見ると、待ってましたとばかり、ニュースを伝えてくれた。
「えーっ、ほんとー?」
Sさんの家は、ステーションから100メートルほどのところにある。
「Sさんが家から出てきたときに熊が出てきてかまれた。パトカーが来て、一昨日このあたり大変だったよ。」
怪我はたいしたことはなかったらしい。熊は竹やぶのなかに逃げ込んだから、猟友会の人たちが包囲して竹やぶのなかで撃ち取った。まさか、まさか、そんな騒動があったなんて、まったく知らなかった。時間は午後3時半というから、昼間じゃないか。ぼくはそのとき勤務で出かけていた。帰宅したのは午後6時前だった。それにしては、とーんと情報が伝わってこなかったのが不思議だ。
「熊は穂高のほうで出没していた熊らしいよ。それがこっちへ移動してきたみたい」
Iさんが言う。
「穂高地区から移ってきた? それじゃあ、我が家の前を通っていったということじゃあ」
夜中に移動したのかもしれない。それにしてもランには何の動きもなかった。お向かいのマミも吠えなかった。こういう情報は、だれかの推測がいかにも本当のように伝わっていくケースだ。
かまれたのはどこなのか、傷はどの程度なのか、射殺された熊はどんな熊なのか、とんと分からない。家に帰って洋子に伝えると、これまた仰天していた。
「よっぽど食べ物がないんやねえ」
そうだなと思う。ドングリの類が山で不足しているのだ。食べ物を探しに、とうとう人家のあるところまで下りてきてしまった。
今日、近所のAさんとの立ち話が、熊のことになった。
「熊はK工場のなかで殺されたそうですよ。いったん下の村まで行って、また上に上がってきて、K会社の工場のなかに入ったらしいです。熊の足跡も付いていたそうですよ」
あれれ、熊はSさんの家の裏にある竹やぶで射殺されたのではなかった? そのことをAさんに話すと、今度はAさんが「えーっ」と驚いている。
「Sさんの家って、あそこの?」
「そう、すぐそこの。」
「そんなとこでー?」
口から口へ伝わる情報、どう変化していくかわからない。Aさんは、こんなことも言った。
「熊は、去年里に下りてきた子熊が大きくなって、また里に下りてきたそうですよ」
熊が出て、とうとう噛まれた、これはホットな情報だ。この種の情報が口コミで人から人に伝播すると、興味津々で追加された思いによっていろんな物語が作られていく可能性が高い。
熊の側からすれば、実にシンプルなできごとに過ぎないのだが。
「私たち、食べ物がないんです。山は不作です。食べ物がなければ冬眠できません。難民同然です。山に食べ物を送ってください」