二人の来客

先日、三重のムラから、YさんとSさんが我が家に来られた。その一週間前、二人は、燕岳に登る予定で来たついでに寄って行かれたばかり。

 その日、二人は蝶が岳に登って、帰りに我が家に来られた。

「麓の三俣から日帰りで蝶が岳に登ってきたよ。快晴のアルプス、すごかったよ。穂高槍ヶ岳の絶景に、三時間ほど見惚れて、感動して動けなかった。」

工房に入り、もう夕方だったが、話がはずんだ。二人とも六十代か七十代か、年は聞いていない。蝶が岳一日で往復とは、二人の健脚に驚く。

話ははずんだ。Sさんは若いころ、三重のムラに入る前、大阪の八尾、信貴山の西麓に住み、大阪の泉州山岳会に所属して山に登っていたと言う。泉州山岳会とは、なつかしい名前だ。わが青年時代、近畿の山をこの山岳会はくまなく歩き、記録に残していたことで知られていた。

Sさんは、ぼくの出版した「夕映えのなかに」を読んでくれて、またぼくに会って話を聞きたいと思って、来てくれたのだった。

ぼくはあの本の最後、「夕映えのなかに」というシューベルトの歌曲に合わせて、同じタイトルの立原道造の詩も書いた。Sさんは、そのことを語りだした。

「『夕映えのなかに』、感動しましたよ。私ねえ、若いころ合唱もやっていたんですよ。立原道造の詩の『雨』という歌があるんです。それ思い出しましたよ。合唱団でその曲をよく歌いましたね。」

「えーっ、その曲、聞きたいですね。」

そう言うと、Sさんは照れることなく、すっと立ち上がり、両手のひらを結んで、黙想し、静かに歌い始めた。その姿は独唱する歌手が心をこめるスタイルだった。陽気で、大阪弁まるだしのSさんの姿は一変した。発声は、本格的なものだった。これには私も洋子も胸打たれた。 

 歌が終わって、ぼくはしみじみと言った。

「ムラで、どうしてムラ人の合唱団ができなかったのだろう、あの『夕映えのなかに』に、私は、武者小路実篤の『新しき村』の話を書いたが、そこでは、村人の演劇団や合唱団がつくられていた。なぜムラではそういう活動がつくれなかったのだろう。」

話はそこからかなり深い「ムラ論」になっていった。ムラの草創期からムラづくりの中心は農民だった。大学生のときに参画したYさんは、ひたすら農民でありつづけてきたが、自分はそれが原点なのだという。だが組織づくりの拡大路線の過程で、考え方と理論、実践に偏頗が生じていったのではないか。

 組織・集団が権力性、独善性をはらんできた時、危機が訪れる。

 Sさんの歌を聴きながら、今は原点にもどって新たな道の模索が行われているのだろうと思う。お二人の話を聞きながら、そこに純粋な、自由なものをひしひしと感じる。だから二人は二度も秋の北アルプスにやってきた。

 

 人は集団をつくって、長い長い歴史を生きてきた。集団をつくる、村をつくる、助け合い分かち合う。

 組織をつくる、国をつくる‥‥。

 そして対立し、争い、奪い合う。

 巨大な軍事力、強い統治力、権力性をもった国家。

 それが道を誤ればもっとも巨大な過ち、人類破滅の道を生む。