福島での子どもの甲状腺ガン

   


(「安曇野ひかりプロジェクト」福島の子どもキャンプで)


 福島での子どもの甲状腺ガンが増えているという調査結果が出た。その結果について、NHKテレビニュースで医師がコメントしている。
 「原発事故が原因であるとは考えられない」。
 福島県はこう言う。
 「被曝の影響とは考えにくい」。
 「考えられない」「考えにくい」、この言葉の言い回し、はて? と思う。
 聴く耳には、原発事故の放射能が原因ではない、と聞こえてくる。
 原発が原因ではないと言うなら、原因ではないという検証がなされたのだろうか? 原因の証明ができないのなら、どうして考えられないと言えるのか。
 原発が原因であるとは証明できないし、原因ではないということも証明できないというなら、
 「原発が原因か、原因でないか、まだ証明できていません。原発の影響があるのかどうか分かりません」
とコメントすべきだ。
 「考えられない」「考えにくい」、この言い方には、主観がにじみでている。ニュースという事実を伝える行為に話し手の主観が色をつけてしまう。
 子どもの甲状腺ガンが増えているというデータが出れば、放射能の影響を受けた結果かもしれないと疑問を抱くのは自然なことだ。放射線を含んだ物質がどのように流れて、子どもたちの体に入っていったのか、そこから危機に対応する研究と対策が出てくる。体が示しているものは事実である。
 西アフリカでエボラ出血熱が猛威をふるっている。次々人が死んでいる。こうなったのは初動が間違っていたからだと言われている。
 「西アフリカでは、これまでエボラはなかった。発熱など症状が出ている人たちは、エボラとは考えられない」
と、医師たちはエボラとの関係を想像することもしなかった結果であると伝えられている。


 話が跳ぶ。
 戦時中の日本軍の慰安婦問題で主観報道が激しい。直接軍が関与したとは考えられない。軍の関与を証明することができないではないか。だから軍の関与はなかったのだ、と。
 しかし被害者の体と精神に残る記憶という事実がある。被害者は人間の尊厳をかけて証言する。当時従軍した兵士、ジャーナリスト、従軍作家にも記憶、体験がある。
 事実を埋没させようとする人間の主観はこの国の堕落、精神の退廃を生む。
 今日、高橋源一郎が書いていた。
 「慰安婦たちの言葉を裏付ける証言をするものなどおらず、彼女たちの言葉を信ずるに足りないと、ほんとうにそうなのだろうか。
 戦後70年たち、『先の戦争』の経験者たちの大半が退場して、いま、論議するのは経験なきものたちばかりだ。
 紙の資料に頼りながら、そこで発せられる『単なる売春婦』『殺されたと言ってもたかだか数千で、大虐殺とはいえない』といった種類の言葉に、わたしは強い違和を感じてきた。『資料』の中では単なる数に過ぎないが、一人ひとりがまったく異なった運命を持った個人である『当事者』が『そこ』にはいたのだ。
 だが、その『当事者』のことが、最も近くにいて、誰よりも豊かな感受性を持った人間にとってすら『想像の及ばぬこと』だとしたら、そこから遠く離れたわたしたちは、もっと謙虚になるべきではないだろうか。性急に結論を出す前にわたしは目を閉じ、静かに、遙か遠く、言葉をもてなかった人々の内奥の言葉を想像してみたいと思う。」(朝日新聞 8月28日)
  ぼくはこの言葉に共感する。


 福島県が行っている子どもの甲状腺検査。対象者のおよそ8割の結果が公表された。
 甲状腺ガンという診断が確定した子どもは50人となった。甲状腺ガンという疑いを含めると104人。
 100万人に一人と言われた子どもの甲状腺ガンが、100万人に対して174人発症している。
 福島県「県民健康調査」検討委員会の調査では、100万人に310人とか。
 広島、長崎では、被爆後5年で白血病の発病がピークになった。ガンはそれ以降に現れてくるという。
 それでも「考えられない」「考えにくい」と言いつづけるか。