恐ろしい住環境

 ぼくが、安曇野だけでなく、日本の多くの街や村の景観が、魅力的でなく、美しいとも感じなくなったのは、建てられる個々の家どうしに調和、ハーモニーがなく、ばらばらになったことと、周囲に自然や樹林を残さず、あるいはつくらず、自然に溶け込んだ家の景観を失ったためだった。昔の日本の村や街はそうではなかった。伝統家屋は互いに調和しあっていた。また家々は周りの木々や田園に溶け込んでいた。それがいつから不調和になってきたかというと、高度経済成長が始まってマイホームの建設が盛んになってからだった。宅地は狭く、家はそれぞれ自分の好みや経済性に合わせて建てられた。建築会社はさまざまな家を競うように売り出した。家を建てる人は、自分の住む家の利便性や快適さ、好みなど、周囲から切り離した自分の住居の内だけを見ていた。自分の家が隣や周りの住宅と調和して、ハーモニーやリズムを生み出すという考えはなかった。
安曇野の景観を考えるとき、このことを抜きにはできない。

 最近次のような文章に出会ったのだ。
 いわゆる筑波の新興の現代住宅で、何から何まで過保護過干渉なママのもとで育った若者が、精神的に行き詰まってしまう。どうもそこには居住環境、生育環境のすべてが関係していた。藤原新也の小説「乳の海」である。主人公「私」は、その青年の生い立ちを聞きながら、彼に話す。そのなかに出てくる話である。


 <最近の新興住宅というのは、ぜいたくになる反面、いっそう人間の生理に反するような構造を持っていてね。たとえば住宅の画一化への反動のようなものがあって、今度は個性を重んじるって建前が全面に出てしまう。これは住宅に限らず最近の服飾関係にも言えることだが、こんどは企業は画一的な個性を売り始めたんだ。その新興住宅地帯に行くと、メルヘン調の家あり、日本調あり、ロココ調あり、って感じで、一軒一軒の家のスタイルが全部違うのね。その街を歩いていたときの気持ち悪さっていうか、不安感っていうか、ある種パースペクティブ(遠近法)の狂った部屋に入ったときに三半規管が狂って気分が悪くなるね、あんな感じだ。知的には一応そこに住まう人々は画一から逃れたって気分で、満足にひたってるわけだけど、それはもとを裏返せば、ひとつの店舗に同じ色のパンツやシャツを置かないっていうイクシーズ・ブランドの商品みたいなもので、あちこちに散らばった新興住宅を寄せ集めれば、瓜二つの家が無数にあるわけだ。
 しかし、画一よりももっと人間の生理をあざむくのは、その奇妙な個性主義空間なんだね。そんな住空間は人間の歴史にはかつて無かったおそろしく奇妙な空間であり、非現実的な出来事なんだ。日本だって昔はそうだった。農家といえば一つの同じスタイルがあった。町家もそうだ。スイスのアルプス小屋も、スペインのトレドの家並みも、イスラムの家並みも、隣の家と自分の家が同じというのが本当は自然なことなんだ。
 個性というのは外面の形ではなくその画一の空間に長年住み続けることによって、家に付着するその家に住まう人間の臭いとか癖とかセンスによって、育まれる種類のものなんだね。つまりあの柱に傷のついた家なわけだ。>

 「柱に傷のついた家」というのは、童謡にある「柱の傷はおととしの、5月5日のせいくらべ」の家である。長く家族で住んでいる家には、子どもの育ちの後が残る。柱に刻まれた傷は背比べした時の傷だ。家には家族の暮らしてきたいくつもの名残りが、傷が残っている。その暮らしの蓄積のなかで、人は心の安らぎを得、いやしを得る。
 主人公はそう青年に話しながら、筑波の新興住宅に住む主婦は、「真っ白い空間の中に入れられて自己失認の不安に駆られている被拷問者のようなものだ。ホワイト・ボックスに入れられた被拷問者は不安からやがて恐怖や神経症を持つようになる。」と言う。
 ママの心は、孤独感というよりもっと空疎なもの、自己がない、自分がいない、自分が空白なことによって、深いところから来る無意識の痛みの涙を流す。そして唯一子どもだけが自分の充たされぬ心を埋める存在として、子どもと一体化していこうとする。
 青年はその苦しいしばられた関係からのがれようとするのだが、筑波大学にいってもそこも同じ空間だった。
 閉ざされた空間の病理にまでいたる住環境、そういう建物が集まった心の落ち着かない地域環境、その恐ろしさ、それが子どもの育ちにも影響を与えていく。日本のさまざまな問題が、予言的にこの小説で語られている。
 教育の問題や日本の姿で、見逃されてきた重大な問題があるように思う。


 精神を病むものたち、憎悪の心に生きる者たち、
 国連が日本のヘイトスピーチデモに対して強い勧告を行った。
 隣国に国籍を持つ在日の人々を、「殺せ」「出て行け」などと叫ぶ日本人の存在を、その行為だけで判断するのではなく、どうしてそういう心の状態がこの日本社会の中から、そして思考の中から生まれてきたのかを究明していかねば元を断つことはできない。