灰谷健次郎がかつてこんなことを書いていた。「優しさという階段 エッセイ集」のなかである。
<最近、わたしは『ダウン症の子をもって』(正村公宏著 奥さんの文章が多く挿入されている)を読ませていただく機会をもって、こんにちのむずかしい障害者(児)問題やその教育に、一筋の光明を見いだすような思いを持った。
障害児と共に生きることが辛酸でなかろうはずはないが、この書物にはいっかんしてある冷静さが支配して、それが深い人間洞察を生むと同時に、いのちの優しさとでもいった情感をわたしたちに伝えるのである。ある一つの辛酸を書いているのに、人々をほのぼのとした思いに浸らせ、人間をいとおしいものとしてこの手に抱きしめようとする気を起こさせてしまう。
「私(母)が居間で本を読んでいると、彼がいる隣の部屋から、すすり泣くような声が聞こえてきました。はじめはふざけているのかなと思っていたのですが、いっこうにやまないので、変だと思って行ってみました。すると彼は、ハンカチに顔を当てて本当に泣いていました。私はすぐに声をかけないで、様子を見ました。ラジオ・カセットには、テープがかかっていて、シューベルトとモーツァルトの子守歌の音楽がつづいていました。彼は、私がはいってきたことに気づきませんでした。子守歌のところが終わると、巻き戻しをして、またかけました。そしてまた、ハンカチに顔をうずめ、背中をまるくして泣いていました。私が、彼の肩にそっと手をかけ、『悲しいの?』ときくと、彼はコックリしました。私は黙って部屋を出ました‥‥」
「障害の子にとっての『自立』とは、ある達成された状態を意味しているのではないと私は思う。それは、この子たちの『可能性』を求めるたえまない努力の方向を意味しているのだあと私は考えている」
「私たちは、つねに、ほかの子どもに比較してどうかということではなくて、彼自身の持っている潜在的な力、彼の持っている可能性を、たとえわずかずつでも、引き出してやることができているかという『絶対評価』の物差しで彼を見る以外になかった。
『ああ、彼にもこんなことができるんだなあ』という小さな発見の喜びが、つねに私たちを支える大きな要素になってきた」
この書物に流れる冷静さと優しさは、人間的なものを壊そうとする力に対しておそるべき武器となって立ち向かう質のものなのだろう。>
『ダウン症の子をもって』(正村公宏著)を読んだ灰谷はこのようにその内容を紹介している。そして、「優しさという階段 エッセイ集」を通して、1986年、彼は訴えていたのである。
<日本には、日本の教育を切り開いた多くの先達がいる。その教育実践を学ぶとき、そこに共通してみられるものがある。
それは教え導くことを先行させなかったということである。
今、目の前にいる子どもたちに悩みがあり、思わず目をつむりたくなるようなかなしみがあれば、まずそれに心を寄せ、共にあろうとしたという事実は、こんにちのわたしたちが深く考えなくてはならないことである。‥‥
子どもたちは、優しさという階段をのぼっている。けなげにのぼっている。
虚心に見れば、子どもたちのそんな生き方が見えるはずだ。あるいはまた、そんなふうに生きたいと願っている子どもたちの心が見えるはずだ。>
灰谷健次郎もそうだったし、日本の教育を切り開いた多くの先達もそうだった。優しさという階段をけなげにのぼっている子どもたちに寄り添って教育実践を行ってきたのだ。
シューベルトやモーツァルトの子守歌の音楽に泣いていたダウン症のその子、
そこに人間の心の極点に生まれる結晶を見る思いがする。
その子の心に育まれてきたもの、哀しみに感じ、優しさに感じる心、 それは、
その子の親の、哀しみに感じ、優しさに感じ、いとおしく思う心が、わが子の心に芽生えてくるその感性や感情を、酵母のパン生地がふっくらとふくらむように、育んできたからでもある。
そしてその子は、音楽を聞きながら泣いている。
今も教育が荒廃しているというならば、
子どもたちの心に育つ芽を摘んでしまうような抑圧をしているからではないか。
哀しみに感じ、優しさに感じる心の芽にふたをするような育ち環境を、親も学校も社会もぐるになってつくっているからではないか。