「弱者」の価値、強味、社会の中での意味<1>

 フクちゃんのお父さんが、昨年、高橋源一郎氏の講演を聞いて書いた文章を読んだ。ダウン症のフクちゃんの育児日記だが、そこに書かれている高橋源一郎氏の講演内容と、フクちゃんのとうちゃんの思いとにふれて、ぼくは心が開かれる思いがした。新聞で高橋源一郎氏の時事を斬る評論を読んだときは、眼が開かれる思いがするが、高橋源一郎氏の講演について書いているフクちゃんの父さんの文章からは、人間として開かれる思いがした。
 高橋源一郎氏は、小説家であり、文芸評論家である。明治学院大学の教授でもある。
 フクちゃんのお父さんは、こんな文章を書いている。

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 高橋源一郎さんの講演を聞いた。
 弱者を中心にした、街をつくりたい、という。それは、かならず、コミュニティ全体のためになる。コミュニティ、共同体そのものが、生き易くなる。最終的には、そこに生きる全員が、受益者となる。
 生きにくさや、息苦しさを感じる世の中になってしまっているのは、弱者に光を当てていないからだ、という。
 「この子らを世の光に」
という言葉があったけど、それを実践しようとしているのかも‥‥。
 教室では、ADHDやLDの子にとって、住み心地の良い教室環境をつくってやると、そこにいる全員の具合がよくなる。
 教室環境が整うと、だれもが住みやすい。
 だから、子どもたちの気持ちが、落ち着いてくる。
 悪口が減って、運動会や音楽会で、協力する子どもたちの雰囲気がつくりやすい。
 これも、いわゆる「ふつうの子」たちばかりでは、見えてこなかった、つくりだすことのできなかった部分であって、障害を抱える子が教えてくれた、とも言える。
 高橋さんの下のお子さんは、重度の脳のマヒに侵されて、そこから奇跡的に復活したそうだ。
その過程で、源一郎さんなりに、みえてきた世界をお話してくださった。
 一番感じたのは、重度障害をもつ子どもを、育てたり、介護したりしている母親が、なんともパワフルで、元気溌剌なことだそうで、そのことに衝撃を受けたそうです。(その逆で、父親は大体、疲れ果てていることが多いんだとか)
 高橋さんはそこから、「弱者」の価値、強味、社会の中での意味を考え始めたのだという。

 ダウン症児の話も面白かった。
 ダウン症児は、絵画をかくときに、懸命に描く。そして、ぴたり、とやめる。そのやめるポイント、止め時が、まさにピタリ、と見事に決まっているそうであります。大体、絵というのは、どこでやめたらよいか、正答が見つからない。描いている本人が決めるしかない。
 ただ、多くの場合、まだ描いた方がいい、という段階だったり、あるいは描きすぎて失敗することの方が多いそうです。ま、良くしよう、良くしよう、と思いすぎて、描きすぎる、ってこと、ありがちですよね。
 絵描きはそこが難しいのだ、というのですが、ダウン症の彼ら、彼女らは、それを感覚で、ピタリと知る、そうです。そして、ダウン症児の絵は、本当に明るいそうです。

 これは、フクを見ていても、分かる。
 彼らはともかく明るいので、人の顔を見たり、目を見つめたりするだけで、彼らはなにも不足がなく、満ち足りていて、今日も生きていられることの幸福を、かみしめて笑うのです。
その調子で描いた絵だから、明るい。とても、明るい。
 うつ病の経歴があるおばあさんが、宅老所にやってくるフクとなごんでいるのが好きなんだそうだ。その方は、もうフクに会いたいために、宅老所まで出てくるんだとか。
 こういう話を聞くと、高橋さんが、
 「弱者を中心にした街」
を構想するのも、分かる気がする。
 高橋さんは、もう余命いくばくもない、という児童を受け入れている施設、ホスピスを渡り歩いて、海外までもいく。そして、そこでの日常を見て、そこで一番癒されているのが、大人なんだ、と気づいたそうです。一番強いのが、弱者ということになっている、子どもです。余命いくばくもない子ども、彼らが、もっとも強い。
 彼らが、いのちに向き合っている、その向き合い方が、いちばん、どっしりしている。
 見ていると、その子たちが、親の心配をして、
 「ぼくが死んでも、泣かないでくれ、心配しないでくれ、困らないでくれ」
ということを、ホスピスの最終段階で、親に頼んでいくそうです。
 親は、パニックで、号泣している。
 「ぼくがいなくなっても、困らないでね。でないと、僕は死ぬの平気なのに、お母さんたちがどうなっちゃうのか心配で、死ぬに死ねないよ」
 こういう生きた人間のやり取りを見聞きし、高橋さんは、確信に至る。
 本当に生きる、ということを教えてくれるのは、この子たちなんだな、と。
 ホスピスで長く働く職員にインタビューすると、
 「世界中が、このホスピスのようになれば、すべての紛争や憎しみ、争い事がなくなると思います」
というんだって。
 それが面白いことに、イギリスでも、日本でも、どこの国のホスピスでも、余命いくばくもない児童を預かる施設のスタッフが、みんな同じことを言うようで、
 「ここが一番、人間が人間を受け入れられる場所、幸福でいられる場所だ」
ということを、おっしゃるそうであります。
 はじめて、人に、受け入れられた。
 はじめて、人が、好きだと思えた。
 はじめて、親になれた。
 はじめて、愛することができた‥‥。
ホスピスに関わる人間が、こういう感想を残していく。重度の障害を持つ子や、介護している親が、そうつぶやく。それを見て、スタッフが、感じるのでしょうね。
 「ここが、一番、人間が人間でいられる場所なんだろう」って‥‥。
山梨県南アルプス市にある、子どもの村小学校で、講演会をしてくださいました。高橋源一郎さん、ありがとうございました。
 『安曇野障害児親の会』でも、こんな話が聴けたらな、と思いましたね。

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 もう30年以上前になるが、大阪の加美中学校に勤務していたとき、担任する普通学級でぼくは二人の障がい児を受け持った。ヒロシとサトシ。ヒロシは生まれるときの障碍で、脳性まひになった。運動障害に知能障碍をもつヒロシは、歩行も言語も健常児のようにできない。しかし、みんなと同じようにやろうとするチャレンジ精神が、健常児以上にすごかった。小学校2年生のときは自転車に乗れるように練習した。何度もこけて、怪我をしながらも最後に乗れるようになった。ぼくのクラスになってから、水泳に挑戦し、水の中にぶくぶく沈みかけながらもチャレンジをやめなかった。その姿が、クラスのみんなに尊敬の念を生んだ。
 ある日の放課後、みんなが下校した教室に二人の姿が見えた。のぞいてみると、クラスの女の子とヒロシが会話している。何を話しているのかと思って聞いてみると、なんとアメリカのロック歌手の音楽についてだった。女の子は、学級で成績トップの在日の子だった。二人は、対等の友だちのように、にこやかに親しくロックについて話している。そういう会話が成り立つことが奇跡のような光景だった。障碍はあっても、ロックを感じる心は対等であった。ぼくはヒロシとその女の子に、深い感動を覚えた。
 そのときの感動を今も忘れることができない。