「ごちそうさん」、哀しみと愛


 テレビドラマ「ごちそうさん」を毎朝観ている。
 俳優たちはその物語の人になり、ぼくは、描かれる場面を自分の中でふくらませて、感情移入する。フィクションの奥にひそむ真実がある。
 終戦前、息子活男の戦死を伝える公報を母親の芽以子は受け取った。けれど、それを信じることができない。大阪大空襲があり、やがて敗戦を迎える。焼け残った蔵に住む芽以子のもとに、活男の戦友がやってきて、活男の持っていた遺品の手帳を渡す。活男の日記だった。手帳の中に活男が見た夢が記されていた。母がつくってくれた料理を活男は食べようとする、がその度に母の姿も料理も消えてしまう。哀しい夢だった。
 手帳に記された活男の文字を読んだ芽以子は、涙を振り払って、これを契機に活男をとむらってやろうと思う。そして活男の日記に書かれていた何種類かの料理を作って、家族みんなで涙をぬぐいながら食べる。それが活男のとむらいだった。
 このドラマを観てきて、何度かぼくも胸が詰まって涙腺がゆるんだ。悲しい場面を見て、自分もあの時代のなかにいた。
 「かなしい」という感情は、愛に通じるのだなと思う。「哀しい」の「哀」には、「かなしい、せつない」という気持ちが含まれる。そして、愛には、「いとおしい、せつない」気持ちが含まれている。アイ、哀、愛。
 「かなしい」は、愛の変形なのだと思う。

 今はなき灰谷健次郎が昔、一冊の書「ダウン症の子をもって」(正村公宏 新潮社)を読んで、一筋の光明を見出したと書いた。灰谷は、ダウン症の子とともに生きる両親の次の部分を紹介していた。この本は正村夫妻の共著でもあった。
 「私(母)が居間で本を読んでいると、彼がいる隣の部屋から、すすり泣くような声が聞こえてきました。はじめはふざけているのかなと思っていたのですが、いっこうにやまないので、変だと思っていってみました。すると彼は、ハンカチに顔を当てて本当に泣いていました。私はすぐに声をかけないで、様子を見ました。ラジオ・カセットには、テープがかかっていて、シューベルトモーツァルトの子守歌の音楽がつづいていました。彼は、私がはいってきたことに気づきませんでした。子守歌のところが終わると、巻き戻しをして、またかけました。そしてまた、ハンカチに顔をうずめ、背中をまるくして泣いていました。私が、彼の肩にそっと手をかけ、『悲しいの?』ときくと、彼はコックリしました。私は黙って部屋を出ました。‥‥」
 正村氏の妻の文章である。ダウン症のわが子が、シューベルトモーツァルトの子守歌を何回も何回も聴いている。そして泣いている。その子の感度の深さに驚く。
 灰谷は、障がい児教育はすべての教育の原点であると書いた。そして正村の次の文章を灰谷は紹介した。
 「障害の子にとっての『自立』とは、ある達成された状態を意味しているのではないと私は思う。それは、この子たちの『可能性』を求めるたえまない努力の方向を意味しているのだと私は考えている。」
 「私たちは、つねに、ほかの子どもに比較してどうかということではなくて、彼自身の持っている潜在的な力、彼の持っている可能性を、たとえわずかずつでも、引き出してやることができているかどうかという『絶対評価』の物差しで彼を見る以外になかった。『ああ、彼にもこんなことができるんだなあ』という小さな発見の喜びが、つねに私たちを支える大きな要素になってきた。」
 「この子たちの世界には、一等賞、二等賞、三等賞というのはありえない。誰がいちばん速く走ったかではなくて、誰がいちばんそれぞれの持つ可能性を引き出しきったかが問われるべきなのである。」
 灰谷は、この書に流れる冷静さと優しさは、人間的なものを壊そうとする力に対して恐るべき武器となって立ち向かう質のものなのだろう、と高く評価した。
 憎しみは、怒りを引き出し、他者を破壊する。
 哀しみは、愛を引き出し、自他を慈しむ。
 シューベルトモーツァルトの子守歌を何回も聴いて泣いている子。その子はきっと、哀しみを哀しみと感じ、喜びを喜びと感じ、楽しみを楽しみと感じる子どもなんだろう。