大正デモクラシーと「新しき村」

 武者小路実篤が「新しき村」づくりを宮崎県日向の山の中、木城村で始めたのは1918(大正7)年だった。白樺派の武者小路は、日露戦争の悲惨を体験して、トルストイの平和主義に傾倒し、人類愛、人道主義をかかげて、衣食住はタダという生活共同体の村づくりを開始した。この経緯と彼の理想は、記録的作品「土地」に書かれている。
 その後、農地の大半がダムで水没ということになって、「新しき村」は1939年に埼玉県毛呂山に第二の村をつくった。
 作家・韮山圭介は、その日向の「新しき村」に入って3年間暮らした。そのことについて書いている。韮山は新聞で、「新しき村」のことを知って強い印象を受け、武者小路実篤の著作をむさぼるように読んだ。「土地」という作品が雑誌「解放」に発表されると、それも読んで、数年後韮山は入村することになる。村の中に巨岩があり、その岩は「ロダン岩」と名づけられていた。村がそこに決まった日がロダンの誕生日だったからだ。若き韮山は村で3年間生活し、村を離れる。 1970年代に書いている文章。

 <「新しき村」については、いろいろ批判もあるらしいが、何人も村の精神を否定することはできないだろう。いまの日本の憲法は、世界無類のすばらしいものといわれているが、その根底には村の精神が貫かれているとぼくは思う。>

 武者小路実篤のその作品「土地」のなかに、こんな文章がある。

 <自分たちは何をしようというのか、新しき社会をつくろうというのである。そこでは皆が働けるとき一定の時間だけ働くかわりに、衣食住の心配からのがれ、天命を全うするためには金のいらない社会をつくろうというのだ。その上に自由をたのしみ、個性を生かそうというのだ。
 そんなことができるか?
 できる!
 それが自分たちの確信であり、その確信のもとに進もうというのだ。
それにはまず土地が必要である。土地をただにするために、まず我らは一定の土地を買わなければならない。
‥‥
 自分はすべてかゼロかの主義者ではない。あれかこれかの主義者でもない。自分は自分を人類の意志からはずれささない限り両刀つかいだ。
愛と正義とに常に味方したい。真理からは少しもはみでたくない。>

 「土地」の初めと最後は、神への祈りの言葉となっている。

 日露戦争後から大正時代を経て昭和の初めまでの社会状況を「大正デモクラシー」と呼ばれている。文学運動を抱え込みながら、民主主義的改革を要求する運動が盛んになった。政党が力を持ち、旧薩摩と旧長州の出身者を中心とする藩閥内閣を批判する運動、護憲運動、民本主義、労農運動、社会主義運動、無政府運動など広汎な運動が起こり、政府の権力基盤や特権階級、軍部への批判となって高揚した。
 1918年には米騒動が爆発した。同年、「新しき村」誕生。
 1922年、有島武郎は北海道の有島農場を小作人に解放する。
 1923年、関東大震災が起こる。
 そして反動がやってくる。
 政府権力側は、1925年に普通選挙法を制定する一方で、これらを封じ込め、抑えつけるために悪名高い治安維持法を制定した。
 昭和は民主主義的運動と思想家を次々と弾圧し、悲惨な15年戦争へと駆け下っていったのだった。小林多喜二は、官憲によって虐殺された。