大正から昭和へ、そして現代

 このビニールハウス、暴風でボロボロになっている。


 歌「早春賦」は、1913(大正2)年に発表された。だから今年は誕生100周年。吉丸一昌作詞、中田章作曲の歌である。
 ところでこの大正時代は、大正デモクラシーと呼ばれる民主主義的改革運動が盛んだった。大正後期は、政治改革運動や政治思想運動が最も激しくなった。そのころ、長く歌い継がれることになる童謡も、数多く世に出た。北原白秋や野口雨情らの詩人の作に、山田耕作中山晋平らの音楽家の作曲した歌が、その後の日本で歌われていった。1920年から1926年にかけて生まれた歌は、たとえばこんな歌である。
 「叱られて」「十五夜お月さん」「赤とんぼ」「七つの子」「どんぐりころころ」「青い目の人形」「雀の学校」「ちんちん千鳥」「ゆりかごの歌」「夕日」「砂山」「赤い靴」「シャボン玉」「こがねむし」「春よ来い」「月の砂漠」「おもちゃのマーチ」「肩たたき」「どこかで春が」「からたちの花」「あの町この町」「うさぎのダンス」「しょうじょうじのたぬきばやし」「花嫁人形」「ペチカ」「雨降りお月さん」「アメフリ」「この道」
 これらの歌は、ぼくはすべて知っている。年配の人なら多くの人が歌えるだろう。
このような文化芸術が花開いた時期に、1923年、関東大震災が起こった。それから2年後、時代は戦争へと地すべりしていく。7年後に、日中戦争、太平洋戦争へと突き進む15年戦争の時代が到来するのである。愛国を叫ぶナショナリズムに詩人、作曲家も総動員され、自らタクトを振り始める。
 「詩歌と戦争 白秋と民衆、総力戦への『道』」(NHK出版)で、中野敏男は書いている。
 「このように戦争詩人になっていく白秋と、童謡という創作ジャンルを完成させた抒情詩人である白秋とが、決して別々の存在なのではなく、この震災後の状況下でむしろ重なりあっていたということです。‥‥『この道はいつか来た道』と歌いだされる『この道』は、1926年に発表され、『建国歌』はほぼ同時期の作と認められるものです。白秋が戦争翼賛に精励する愛国詩人であるということは、アジア・太平洋戦争とともに本格化した総力戦の非常時だけに限られた特別なことなのではなく、むしろ震災後という状況下で完成された抒情詩人であることと両立して始まっていたのでした。」
 中野敏男は、白秋を基軸にすえて、抒情詩人がどうして戦争翼賛詩人になっていったか、大震災から、どうして戦争への道をたどっていったのか、国民と文化の視点から考察している。これは東日本大震災原発事故後の日本の道、東アジアとの共生共存の道を考えることにもつながっている。
 日中戦争が本格的になってから5年後、一兵卒として中国戦線で戦っていた歌人宮柊二は、戦場で故国の白秋の訃報を聞いた。1942年だった。白秋は宮柊二の師であった。出征するとき、柊二は白秋に会いに行った。そのとき、白秋は言った、「死ぬな」と。生きて帰って来なさい、それは戦争翼賛の声ではなく、人間・白秋の声であった。