しみじみと語り合う


久しぶりに友の声を聞こうと電話してみた。
「もしもし」
「もしもし、御茶ノ水博士」
「ハッハッハ、御茶ノ水‥‥」
こちらの声がすぐ分かって返事の声に張りが出た。
御茶ノ水博士は、数年前膀胱がんの摘出手術を受けて、人工膀胱を体外にぶらさげている。不自由で厄介なことだとぼくは思う。でも、彼はそれを受け入れて元気に暮らしている。暖かくなって、今日も畑に出て野菜の種をまいたから水をやるのだと言う。春の草がどんどこ生えてくるが、雑誌「現代農業」に、草をとらないで作物を作るというのが出ていたから、いまそれをやっている。そのほうがよくできるのだと言う。
一年ぐらい電話をしていなかった。年に一度か二度、電話会談している。去年の夏、彼は調子よかったが、秋になって体力がぐったりダウンした。
「年だね」
「そうそう、調子がいいと思って調子に乗ると、後でこたえるね」
「老年になると、自分の意識と体が一致しないね」
彼は考古学の発掘調査もやっていた。今は仕事は終わったが、まだ残っている土器の破片がたくさん家に置いてある、これ、どうすべきか、という話に飛んだ。
近松本の美術館だったか、出品された縄文の土偶の話になる。縄文人はどんな人たちだったのだろう。現代人より感性や魂が深い人たちだったのではないかねえ。そうだねえ。
話はあっちへ飛んだりこっちへ飛んだり,
「本の処分もねえ、やらないとねえ」
「最近、一円の本を買いましたよ」
ほしい本があって、インターネットの本屋で中古の本が一円で出ていた。送料が278円だったから支払い279円。今注文している本も一冊一円の本と、99円の本と、二冊。
自分の蔵書を処分しても金にはならないなあ。でもほしい人がいて、読んでもらえればいいねえ。寄贈できるところがあれば、寄贈したいねえ。
久しぶりの会話が盛り上がり、のめりこんでいった。
音楽談義になった。御茶ノ水博士が言う。最近何回も聞いた曲があってねえ。シューベルトの「アルぺジョーネソナタ」でねえ。リストの「巡礼の年」もいいねえ。
ぼくは、シューベルトピアノ曲のCDを中国で買って、最近よく聴いていることを話した。
「この前、冬の旅を三回も繰り返し聴きましたよ」
そういう時があるよねえ。それを聴くことを欲する精神の状態があるねえ。
御茶ノ水博士よりも、ぼくのほうが年上だが、同じ老年、心の状態に共感する。
御茶ノ水博士が最近読んだ本のことを話した。ヘルマンヘッセの作品が出てきた。
「ヘッセの文章ねえ、なんだか心が清浄になるというか、静謐になるというか、いいねえ」
「ぼくも本を無性に読みたくなってねえ、このごろねえ」
長電話になってきた。
「電話代かかるよ」
 彼が言う。インターネットの無料電話もあるのに、この普通電話で長電話する。電話料金高くなる。彼のほうでも、ネット電話できるようにしたらいいのだが。
「無理せずに、のんびり、やりたいことやりましょうよ」
「あと、どれだけ生きれるか分からないけれど」
電話で話せてよかった。
電話を切ってからしみじみとした気分になった。余韻があった。
彼が言ったシューベルトとリストの曲を、ユーチューブで探したらあった。全曲が入っていて聴ける。しばらく聴いた。時間のあるとき、ゆっくり全曲を聴こうと思う。