こんな時代があった、こんな教師がいた

       キャベツに降りた霜


           無題

   子どもたちは何故修身の時間に理科をやるのか、疑わなくなった。
   隣の級で「国運の発展」をやってようと平気だった。
   大きくなって、いろいろなごまかしや、おしつけの理屈に負けぬために、
   算数をやり、読み方をやるんだと、ちゃんと心得て、
   夜はほだ火の明かりにも本をかざした。
   おどろいたことに、
   低能児あつかいされて教室で伏目になっていた五、六人も、
   輝いた目つきになり、
   何でもハキハキするようになった。
   彼らはみんな「貧困家庭」の子どもたちだったのだ。
   萌えあがる芽を踏みにじってきた教育というものを思い、
   その犠牲を思うて、私の胸は燃えた。


   そして私は村を追われた。
   子どもたちは村境まで送ってくれた。
   別れるときただ、
   「先生、達者でいてくれろ」と言い、
   「みんなしっかりやるんだぞ」と言った。
 

   それから放浪五年、
   窮迫と苦悩の日、受け取った一枚のハガキは私をムチ打つ。
   それはかつての、いたいけな子どものハガキだ。
   ――ごぶさたしました。田んぼが始まって、みんな真っ黒になっています。
   働いていると、先生の言った悪い仕組みがわかってきて、
   みんなここでやらんじゃ、というています。


 かの大戦のとき、日本の学校は戦争に向かう人間を育成するために教育も動員された。修身の時間は、忠君愛国をたたきこんだ。けれども、この先生は、軍国主義教育に従わず、修身の時間も、世の中のことを見抜くための学力を培おうとした。そのクラスの子どもたちは、それを理解していた。だから、貧困家庭の、勉強できる条件がないために成績の上がらなかった子どもたちも、目を輝かせ、夜は囲炉裏の端で、本を広げて勉強するようになった。この先生は、それを見て、これまでの教育が子どもの伸びる芽を踏みにじってきたのだと、その犠牲の重さに痛恨の思いを抱いた。
 しかし、このような教師は、「非国民」のレッテルをはられた。この先生も村を追われた。教師は放浪の生活を余儀なくされ、窮迫の暮らしに苦しんだ。
 そこへ届いた教え子からの手紙、子どもたちは、考える子どもになり、村のなかでがんばって田畑を耕して生きている。なぜこんなに苦しい生活をしなければならないのかを考えて生きている。
 大正時代から昭和の時代へ、東北地方や辺境の地で勃興した北方教育運動、生活綴り方教育運動をすすめた教師たちは、このような教師だった。彼らも学校から追放され、弾圧された。
 作者、長崎浩新潟県中蒲原郡の人であった。