臼井吉見の大河小説「安曇野」から

 臼井吉見の大河小説「安曇野」の第一部は、明治の初めから書き出し、大団円の第五部は日本が戦争に敗れた戦後のことが書かれている。中に、昭和二十年(1945)一月一日の清沢洌(きよし)の日記が出てくる。

 一月一日
 日本国民は、いま、はじめて「戦争」を経験している。戦争は文化の母だとか、百年戦争だとかいって賛美してきたのは長いことだった。僕が迫害されたのは、反戦主義者だという理由からであった。
 戦争は、遊山に行くようなものなのか。それをいま、彼らは味わっているのだ。だが、それでも彼らが、ほんとうに戦争に懲(こ)りるかどうかは疑問だ。結果はむしろ反対なのではないかと思う。
 彼らは第一、戦争は不可避なものだと考えている。第二に、彼らは戦争の英雄的であることに酔う。第三に、彼らに国際的知識がない。知識の欠如は驚くべきものがある。
 当分は戦争を嫌う気持ちが起ころうから、その間に正しい教育をしなくてはならぬ。それから婦人の地位をあげることも必要だ。
 日本で最大の不自由は、国際問題において、対手の立場を説明することができない一事だ。日本には自分の立場しかない。この心的態度をかえる教育をしなければ、日本は断じて世界の一等国となることはできぬ。すべての問題はここから出発しなくてはならぬ。
 一月二十九日
 ある重臣が陛下にお目にかかって、講和の御意志はありませんかとお伺い申し上げた。陛下は、無条件だろうなと仰せられた。やや暫くして、それぐらいならば朕も第一線に出て生命を投げ出す、と仰せられた由。
 ある人曰く、何故にその重臣は、その御考えは失礼ながら正しくないこと、一億の死ぬことの御手本を示し給うよりも、彼らをいかにして生かすかをお考え遊ばすことが御義務であられることを何故に申し上げなかったかと。

 日記は五月五日で終わっている。清沢は、終戦を目前に5月21日、急性肺炎により急逝した。55年の短い生涯であった。
 本土爆撃が行なわれていた。明らかに敗北の日本であった。瀬戸際の中で「彼らは戦争は不可避なものだと考え、戦争の英雄的であることに酔い、国際的知識を持たない。知識が欠如している」と、日本国民を批判した。だから、教育の重視を思っていた。
 「当分は戦争を嫌う気持ちが起ころうから、その間に正しい教育をしなくてはならぬ。それから婦人の地位をあげることも必要だ」、すでに敗戦後の日本がとるべき政策を提言している。
 「日本で最大の不自由は、国際問題において、対手の立場を説明することができない一事だ。日本には自分の立場しかない。この心的態度をかえる教育をしなければ、日本は断じて世界の一等国となることはできぬ。」

 8月15日、戦争が終わると、臼井吉見筑摩書房から総合雑誌の編集を任された。雑誌の名は「展望」とした。その創刊号に哲学者、三木清の評論「親鸞」を載せる予定であった。ところが三木清の死が伝えられる。
 「安曇野」に、臼井吉見は次のように書いている。
 「八月十五日から四十日も過ぎて、突如、三木清の獄死をラジオで知らされたとき、僕は自分の耳を疑った。新聞を見ても、ほんとうとは思えなかった。
 三木清は、埼玉の疎開先へ、警察の目をのがれ逃走中のタカクラ・テルが頼って来たのが知れて、豊多摩拘置所に捕らえられていた。とびこんで来た人間が左翼で、人の迷惑を考えない男で、乞われるままに、一夜の宿と、なにがしかの旅費を恵んだという理由で捕えっぱなしということが、そもそも無茶な話である。降伏してポツダム宣言を受諾し、治安維持法でかためた大日本帝国は、根底からひっくりかえってしまっている。マッカーサーによる日本管理方針の声明されたのが九月十日。三木清の獄死は、それからさらに二週間あまり後の九月二十六日であった。政治犯の即時釈放、思想警察の廃止というGHQ指令のあったのは十月四日だった。それが正式に通告されるまで、獄中に捕らえたまま、平然としていた政府や刑務所の無道と非常識と無神経に驚くほかない。」

小説「安曇野」は、碌山美術館が建設され、倭小学校から寄贈された廃物の古オルガンを、美術館の「ぬし」と呼ばれた、雑役夫の横山さんに弾かれる光景で終わっている。横山は弾きながら、「信濃の国」を歌った。

これを読むと、今の日本はほんとうに歴史に学んでいるのかと思う。