<木下尚江と田中正造>、安曇野と足尾・谷中とはつながっている



 臼井吉見の小説『安曇野』第三部に描かれている田中正造の最期である。1913年、年号で言えば大正2年のことだった。


 「八月十三日、正造は信頼していた谷中村の青年、島田宗三を枕もとに呼んで、改まった口調で言った。
――自分は天地とともに生きてきた。天地が亡びれば、自分も亡びないわけにはいかない。今度倒れたのは、安蘇、足利の山川が亡びたからだ。本当に自分の病気を癒したいと思う人があるなら、まず、この破れた山川を回復することにつとめてほしい。そうすれば、自分の病気は明日にもなおるはずだ。とりあえず、山川擁護会をつくるよう、安足の有志に伝えてくれ。
 ここで正造は一息ついた。そして声は低かったが、思いをこめて言った。
 『できるか、できないか、‥‥できなければ、わしは安蘇、足利の山と川とともに亡びてしまう。死んでから、棺を金銀で飾り、花や林檎で埋めても、わしはうれしくはない。』
 宗三は答えた。
 『大事なお言葉ですから、明日見えるはずの木下尚江先生を通じて、それぞれの方向に話していただくことにします。私はお言葉を永久に忘れません。』
 そう答えると、宗三は声をのんで泣き伏した。」


 家の前を、竹薮一つをへだてて、渡良瀬川が流れていた。木下尚江がやってきた。それから半月あまり、正造は村人に見守られて生きた。
 九月の初め、正造は尚江に言った。
 『これからの日本の乱れは、日本の乱れは‥‥、わしは鉱毒問題で大勢のひとを奔走させたが、教育ということを忘れていた。いや、そうじゃない、教育ということを知らなんだ。わしが無教育者でがすから。‥‥それで、自分ひとりだけ抜けてきて、ほかの者をすっぽかしておいたでがすから、いまの場合、どうにもならないでがす。』
 九月四日、正造は『起きる』と言った。尚江が体を抱き起こした。正造の背中は大きかった。尚江の腕の中で、正造は長く、強く息を吐き、ふっと吐く息がとぎれた。それが最期であった。
 あくる日、正造のずた袋を開けてみると、新約聖書一冊、日記三冊が入っていた。尚江が最後のページを開けてみると、
 『悪魔を退くる力なきは、その身もまた悪魔なればなり。すでにすでにその身悪魔にして、悪魔を退けんは難し。ここにおいて懺悔洗礼を要す。』
と書かれていた。
 日本の義民、正造は第一回から六期、衆議院議員であった。足尾銅山鉱毒は足尾の山を破壊し、渡良瀬川流域の田畑を毒していた。正造は、国会でそれを取り上げ、政府と企業を糾弾する闘いを開始する。命を賭して天皇に直訴もした。
 しかし政府は渡良瀬川の洪水対策ということで谷中村をつぶし、そこを遊水池にしようとした。正造は、水に沈む谷中村に住み、徹底抗戦する。そして最期を迎えた。
 正造は自由民権論者であった。松本出身で民権論者にして作家だった木下尚江は、正造翁を尊敬し、慕っていた。
 穂高の、井口喜源治が教える研成義塾を応援した木下尚江は、田中正造と深くつながっていた。
 安曇野の大地と栃木県谷中村の大地とは、尚江と正造によってつながっていたのだ。
 田中正造は議員であるからこそやらねばならなかった。農民の中に入り、生きることを奪われていく農民と生活を共にして、そこから闘いを起こしていった。最後はかなぐり議員を捨て、全財産を放した。真の議員の姿を示した人であった。


 日本の公害の原点である足尾銅山鉱毒事件。銅山はいまも、不毛の山肌をさらしている。そこに木を植える懸命のボランティアがいる。作家の今はなき立松和平もその一人だった。