清沢洌と現代

 それは3年前になるが、赴任してこられたK氏と挨拶を交わしたとき、冗談半分に、
 「清沢洌(きよさわ きよし)の子孫ではないですか」
と言ってみたら、そうですという返事が返ってきた。
 えっ、ほんとう? 冗談でしょう、と思ったが当たっていた。自分は清沢洌の実家の分家の子孫です、という。へえー、あの15年戦争を批判したジャーナリスト清沢洌の親戚ですかあ。そういう人が目の前にいる、それは不思議な感慨だった。
 清沢洌は、ジャーナリストであり、評論家でもあった。外交問題、特に日米関係の評論で歯に衣着せず、日記『暗黒日記』は戦争を厳しく批判した。
 同僚K氏は、反骨のジャーナリスト清沢洌のことはあまり詳しく知らない、とその時は言ったが、最近、清沢洌のフォーラムがあったから参加してきたとのことだった。そのときに購入してきた評論「清沢洌自由主義」(同志社女子大名誉教授 宮沢正典)を読みますか、と言うから、ぜひにと応えてお借りした。
 清沢洌は1890年、北穂高村の農家に生まれた。穂高に開校した井口喜源治の研成義塾で学び、強い影響受ける。1907年(明治40年)、17歳で研学移民(学生となるための移民)でアメリカに渡り、勤労学生になった。アメリカでは日本人移民排斥運動や、蔑視と敵意のなかで、邦字紙の記者となる。日本に帰ってきて新聞社でジャーナリストとして活動する。1929年からフリーとなって欧米での取材・執筆活動をする。そして1932年、帰国した清沢は日本の内政・外交に対して鋭い評論を発表しつづけた。
 「清沢洌自由主義」(同志社女子大名誉教授 宮沢正典)を読んだ。
 清沢の次の論は1929年(昭和4年)であった。
「軍国日本はある。官僚日本はある。産業日本も形だけはあるが、自由日本はどこにあるのだ。見ろ、あまりに巨大な国家権力と、あまりに階級的な社会意識のために日本の民衆はひき臼の下にでも落ち込んだように、引き回され、小突き回されているではないか。『個人の自由は憲法に明記されているではないか』などと、見えすいた嘘は言わないでくれ。わたしたちは、自分の意見を自由に発表することができるか。自分の想っていることをそのまま語ることはできるか。私たちの生活は泥靴でお勝手にあがるように、常に官憲のために荒らされていることはないか。」
 「現代社会では『否(ノー)』という文字はほとんど行方不明になっている。ことに世が非常時相に入ってからは、社会の中心勢力から出る音頭に調子を合わさないものは、国家や社会を毒するもののように考えられている。非常時というのは、無理なことが何らの反対なく行われる時のことで、平常時というのは無理が無理として非難されるときであると言ってもいいほど、現在、無理に対する批判がない。‥‥
 道理と正義をもって世界に広がっていこうとする日本に、良心の発表の自由が制限されて、それが国家のためになるということを私は信じない。明朗日本への道は、良心を殺さずに住める社会をつくることだ。‥‥恐怖と失望を高潮して、目隠しして従わせるのでは、少なくとも住みよい社会は来ない。」

 清沢洌は、権力の側だけでなく、左右の国民からも攻撃を受ける。しかし敢然とそれに言論で応えた。

 「私は私のもつ意見に対しては、常に強力なる反対を歓迎するものである。しかしながら私はもし私の動機が、愛国的至誠に発したものでないというものがあらば、私は猛然としてその人に聞く。君の信ずるように信じなければ愛国でないのか。愛国心には、ただ一つの道しかないのか。さらに君は何の権利があって、自分だけが正しいと主張するのかと。いかにも、私はまだ忠君愛国を売り物にしたことはない。国民のこの最高の感情を利用して人をおとしいれたことはない。けれども私は父祖の国の前途を思うて、これに微力を捧げんとする精神において、何人にも劣ると信ずるほど謙遜ではないのである。」

 亡くなる前、清沢洌は、「官僚と軍人の政治というものが、こうも日本を滅茶にしてしまったのだ」と嘆いたとか。1945年5月、敗戦の3ヶ月前の死だった。この人が生き延び、戦後の日本で活躍できなかったことを惜しむ。
 彼が今の日本を見たらどう思うだろうか。何を言うだろうか。