清沢洌と原題<2> 

          <写真> 穂高の足湯(ユキちゃんが日本に来たとき)


 前述の宮沢正典「清沢洌自由主義」の論文に、戦前の言論弾圧とジャーナリズムの変質を書いている。
 特高特別高等警察)という装置が国に作られたのは1781(明治4)年であったというから、そんな長い歴史があったのだ。この装置は、「国家、社会の基礎を動揺させるおそれのある行動や社会思想・運動、言論を取り締まる」ためだった。
 日本の国の政府機関による思想、言論の抑圧は、富国強兵の国づくりの一環でもあった。自由民権運動足尾鉱毒事件、大逆事件、つぎつぎ弾圧が重ねられた。
 1911(明治44)には、言論、出版、結社、集会の制限禁止などが強化される。
 1925(大正14)年、治安維持法ができる。
 1928(昭和3)年、全国各府県に、特高警察を設置、治安維持法に死刑を導入。軍部の憲兵隊でも、社会主義、労働農民運動の動静を監視する特高課を設ける。
 1937(昭和12)年、政府は、国民精神総動員運動を開始。国を挙げて、国民は忠義と国のために力を尽くすように鼓舞する。
 1938(昭和13)年、国家総動員法を公布。新聞、出版物の記事に制限を加え、禁止する罰則を定める。
 1941(昭和16)年、言論、出版、集会、結社などを取り締まる法律を公布。言論報道機関を戦争に協力させる体制にした。

 1936(昭和11)年ごろから、言論、報道による逮捕者がぞくぞくと出る。執筆禁止者リストの中に清沢洌の名もあった。
 このような国の体制のなかで、ナチスドイツに批判的だった「大阪朝日」「大阪毎日」は、大きく変質し、戦争協力体制の報道に変わっていった。
 そのなかで清沢洌は、
ヒットラーは何故に人気があるのか――ドイツに来てナチス運動を観る――」(中央公論1938,2)の記事において、
 <ナチス運動は論理の解剖にたえない宗教運動であり、「今はヒットラーの一人芝居になっている」。「宗教の火は自ら燃えつくすまでやまない。そしてドイツの宗教的熱火は、今、ヒットラーを音頭とりとしてえんえんと燃えさかっている。>
と評した。
 さらに「ヒトラーの誤算」(中央公論1939,10)のなかで、
 <ドイツのオーストリア併合、ズデーデン割譲などを背景に「ヒトラーには、敵のいうことも、味方のいうことも、もう耳を傾ける余裕はなかった。今までの場合もそうであるが、今度の彼の欲望はゴム球のようにふくれていった。」「ヒトラーが誤算したかどうかは、後世の歴史家の任務である。」「誤算は、冒険的英雄につきまとう必然の産物ではないか」。>
と情報を分析していた。
 大新聞は、ナチスドイツを讃え、日本の翼賛体制に加担していった。
そのなかで自らの信念に従って体制批判言論を貫くことは死を意味する。清沢も、包囲の中で抑制しながら書かざるをえなかった。宮沢正典氏は、こう述べている。
 <清沢の抵抗も、合法の枠を越えるものではなかったし、実際的効果は極微だったというほかない。しかし、その微小な抵抗であっても容易なわざだったわけではない。>
 清沢洌は、言論抑圧のなかで考えた結果が外交史研究だった。宮沢正典氏は、清沢洌の最後の著書、「日本外交史」(1942、昭和17)のなかの次の一文を紹介している。
 <「悠久なる国家の歴史の上から言えば、戦争と外交とを、明確に断定すべき線はない。世界無比の、戦争に果敢なる日本国民が、同じ程度に外交に聡明であるかどうかが、将来に残された最も大切な課題である。」>
 日本は、外交をないがしろにして戦争に突入していった。
 安倍政権は、「共謀罪」を創設する検討に入ったという。特定秘密法案につづいて、謀議に加わっただけで処罰対象になる法律である。