特定秘密保護法案と民主主義

 特定秘密保護法案が、衆議院本会議で可決され、参議院にまわされた。危惧を抱く国民の意見に耳傾けず、一気に安倍イズムを押し通す。なぜ多くのあいまい、不審を含んだ法案を急ぐのか。それは秘密、なぜ秘密なのか、それも秘密。
 政治権力者は、国民に知らせない秘密を常に持っている。
 これまでも「これは秘密だ」と言われれば、「はい、承知しました」。文書にマル秘の印が押され、行政内部で秘密は堅く守られもした。たまにそれが外部に流出したり、ジャーナリストがその秘密を暴いたりすることがある。1971年の沖縄返還協定にからむ密約を毎日新聞社政治部の西山太吉記者のスクープがあった。政府は密約を否定し、取材上知り得た機密情報を国会議員に漏洩した西山太吉記者らは逮捕され有罪となる。別名、沖縄密約事件。この事件で政府はどのように欺瞞を隠し、どのようなやり方でジャーナリズムを抑圧しようとしたか、その展開は恐るべきものであった。その後、アメリカで情報が開示され密約のあったことが明らかになる。2009年、民主党政権外務大臣岡田克也は外務省に、密約関連文書を全て調査して公開するよう命じた。調査委員会は2010年、密約及び密約に類するものが存在していたことを認めた。岡田外相は、作成後30年を経過した公文書については全て開示すべきことを定める。

 知らないところに秘密のからくりが隠れている。企業のなかでも、とんでもない秘密が従業員を縛り、自由な意見・発言を禁じている。近くは食材虚偽事件があった。
 歴史に残る大事件は水俣病。原因企業「チッソ」は、秘密を隠匿し続けた。そうして大被害を引き起こし、半世紀以上経てもいまだ水俣病は続いている。
 心ある従業員が、内部告発するケースがあって、秘密は世間に知られるようになったケースもあるが、ほとんどの従業員は我が身が大切だから、不都合な秘密隠匿に加担する。ウソでもホントウだと言いつづける。

 さて、今度の法案、指定した秘密を厳重に守ることを法で決め、守らなかったら厳罰に処せられる。政治の流れは、ますます国民に不都合なことは知らせない冷たい管理社会になる。
 国においても地方においても、役所は「ムラ社会」。
 市民運動をしてきて感じたことがある。秘密の話、隠された不都合な真実は、地方行政にも常時存在している。
 我が体験、新しく本庁舎を建てるべきか、従来からある建物を利用すべきか、それを住民投票で決めようじゃないかと、市民運動を起こしたときのことである。建設推進をする行政は市民説明会を計画した。市長が来て建設の目的やどんな庁舎を建てるか説明する。ぼくは、ここで意見を言うことを考え、市が発足する前の元村長に親しい市民からいきさつを聴取し、それをもって会場に行った。開会時間が迫っていた。一歩部屋に入ったぼくは雰囲気が普通ではないと感じた。既に会場はぎっしり人が座っており、ぼくはいちばん前のほうに開いている席に座った。辺りを見ると、黙って座っている人たちの服装が整然としており、見たことのない人たちがほとんどだ。顔見知りもいたが、わずかだった。この整然と座っている人たちは何者だろう。
 会が始まり市長が長々と説明した。質疑になり、ぼくは聴取してきた情報をもとに建設反対の意見を述べた。情報というのは、5町村が合併して市ができる前に建設された堀金村庁舎は市庁舎としても使えるように想定してりっぱにつくったというものであった。耐震設備も、エレベーターも議会の議場も、完全な状態であった。市が発足してから、現実にそれを使って充分足りている。これ以上借金を増やすべきではない。それに対して市長は応えた。新庁舎建設はすでに市民による地域審議会がOKしている、市民の意見を反映して建設するのだと。我が意見は一蹴された。整然と聴いている人たちからは新庁舎建設への疑問はなし。
 このとき感じた違和感は、市民説明会というものの正体についてだった。ここに集まった人たちの大半は、動員された人ではないかという疑問が湧いた。もし動員された人だとしたらどういう人たちだろうか。建設賛成派? 業者? あるいは市の職員? よく分からない。政治は力の行使だから、動員して数の力を利用する。そして市議会議員の多数を体制に組み込む。

 「来るべき民主主義」(国分功一郎 幻冬舎新書)のなかに、こんな一節があった。

<冬なのでとても寒かった。そのためだろうか、会場に入ると、いきなりカイロと毛布を渡された。それを手渡す都庁の職員が信じられないほど丁寧であった。‥‥
何かがおかしかった。説明会ごときでなぜ職員たちがこんなに丁寧に振舞わねばならないのか。どうもあやしいと思った。会場である広い体育館は満員である。どことなく緊迫している。
定刻になり説明会が始まった。それは想像を絶するものだった。
最初に30分ほどのビデオを見せられた。どうしてこの道路が必要なのかを延々と説明するビデオである。‥‥
ビデオを見終わった後、質疑応答が始まった。その時に気づいたのは、この会場を満員にしている住民たちはほぼ全員が計画に反対であり、この質問コーナーを待っていたということである。ところが、司会を務めている都庁の職員から突然、次のようなルールが会場に課された。質問は一人一回。そして、答えに対する再質問は禁止。つまり、話し合うつもりはないということである。
「住民はこの計画に納得していない。なのになぜ説明会なのか? おかしいではないか」という質問も都庁の職員ははぐらかした。要するに彼らは「道路を作ることが決まりました。いいですね?」と、言いに来ただけである。‥‥
何と言ったらよいだろうか。私はバットで頭をなぐられたような気になった。私たちは民主主義の世の中に生きている。少なくともそう言われている。ところが、自分たちが住んでいる土地に道路が建設されると決まったら、それに対してもの申すことも許されない。質問に対する再質問もできない。行政は道路建設を勝手に決めて、「説明会」を開いて終わりということである。‥‥
おそらく、このような「説明会」はこれまで何度も、全国で繰り返されてきたのだ。だが、それにもかかわらず、今の社会の政治制度は民主主義と呼ばれている。それはなぜなのか。‥‥
こうしたことを行なっていても民主主義を標榜できるような理論的なトリックがある。そのトリックに切り込まなければ、この行政の横暴を根底から覆すことはできない。>

原発の被害にうめく福島県公聴会が開かれた。特定秘密法案に反対の意見が全員だった。その翌日衆議院で、公聴会は全く無視され、法案は強行採決によって可決されてしまった。
国会もまた同じ。これが民主主義の国?