再び「壁」について考える。
新市庁舎3階につくられた市議会議場の傍聴席前の「壁」、実際は壁ではなくフェンスの高さだけれども、議場を設計し施工させた人の心に「壁」があったのではないかとぼくは思うから、「壁」と呼んでいる。
「壁」は、議員を傍聴者から遠ざける。傍聴席に座ると議員の姿・全身は全く見えない、座高の高い数人の頭だけ見える。以前の堀金議場では、議員の様子はよく見え、隣同士の議員が何か話している姿も、高齢の議員が途中で倒れた時に周囲の議員たちが心配している様子もよく見えた。だが新議場は何も見えない。
だれがこういうスタイルの議場を作らせたのか。行政と議員のみなさん、傍聴席に座ってごらんなさい。
サッカー競技場や野球場で、選手の全身が見えず、頭の先だけ見えるというような観客席はありえない。議場の場合、傍聴市民は観客ではない。主権者として傍聴席に座り、市民のための政治が行なわれているか、見守っている人びとだ。
じゃあ、座席の部分を一段高くして、見えるようにしましょう、ということになれば、このことについては解決できる。しかし、この裏に根本的な問題がある。そこから派生した問題であるように思う。行政と市議会のひとつの姿がここに現れたのだ。
市の本庁舎建設のプランが立てられたときのこと、市長の説明会が市内各地で行なわれた。ぼくは堀金庁舎で開かれた説明会に参加して意見を述べた。
「90億円近い予算(税金)で本庁舎を建てるよりも、立派な議場も完備している堀金庁舎を利用してはどうか、必要ならば増築を行なったらよい、堀金庁舎はまだ新しく、五町村が合併して一市になる前、堀金村はこの庁舎を新庁舎になることを望んで必要以上に立派な施設を建てたと聞いた。それは元村長に親しい人から聞いたことで、元村長が話していたと‥‥。」
しかし市長は、「建設することは既に地域審議会で決まっている」と、聞く耳を持たなかった。地域審議会なるものがあり、それがどのように民意をくみ取ったのか、その事実はまったく分からない。
翌日、市の建設担当の幹部にぼくは電話を入れた。堀金庁舎三階に議会の議場がある。議場の価値ある設備は全部取り壊すのかと。幹部は、「それは新庁舎へ運んで活用する予定です」と答えた。実際にそれはそうなったのだろうか。
新庁舎建設は住民投票で決めよう、という市民運動の請求も一蹴された。仕事の合間に汗をかいて地域を歩き署名を集めた市民たちの姿には、市の未来を我がこととして考え行動していこうという、積極的な政治参加の姿があった。そういう努力は一顧だにもされなかった。
市民の政治参加の前には「壁」がある。異論・対論をとなえるもの、改革を求めるもの、行政・市議会を監視するものの前には常に「壁」が立ち現れた。
市民運動は議会傍聴を呼び掛け、議会を注視した。討議に参加せず質問も出さない議員がいた。彼らは討議に参加せず、多数決の時だけ意思を示した。市民運動はその実態を年度をさかのぼって調査し、一人ひとりの名前で公開した。その時の功労者Yさんは、いま重い病気になり、闘病生活の中にある。
議員の、質問や討論への参加実態調査の公表は少しは効き目があったと思う。しかし議会の中にうごめく欺瞞や力関係・力の構造は変わらず続いているように見える。政務活動費の不正をめぐり、市民が訴えたことに関しても議員の「ウソ」が明らかになった。
討議の形態、仕組みはいまだ変わらない。
議会の討論は熟議にならない。賛否の意見は平行線のままで採決に至る。極端な言い方をすると、意見を出すと反対派が反対意見を出す、何回か応酬があったとしても、そのパターンの繰り返しで終わり、はい多数決となる。討議の中から政策の問題点や不十分なところ、あるいは新たな見方考え方アイデアなどが発見されていくような熟議に至らない。ピンポンの応酬によって、中身が高まっていくようにならない。徒党を組んでいるように思える会派が力を持ち、政策は多数派のいうとおりになる。多数決がすべて、多数決民主主義。
最も重要な政治討議の場である市議会の討議が熟議にならないのはなぜだろう。
議員たちが学んできたこれまでの学校教育にほんとうの討議が存在せず、したがって経験してこなかったのではないかと思う。日本の教育には、さまざまな角度から意見を出し討議をしながら発見していく教育実践が決定的に欠落しているのを目の当たりにしてきた。やはりそれが政治にも現れていると思う。
議会改革に献身的に力を入れてきたK議員が、12年前、安曇野市に合併する前の旧穂高町議会議員になったとき、議会内の各種委員会を傍聴に行ったら、「何しに来た」「傍聴?とんでもない」というような感じだったそうだ。議員が委員会を傍聴するのにも「壁」があった。安曇野市が発足して10年たち、議会改革も進み、傍聴に対する考え方も変わってきたが、市議会議員のなかからの「自分たちはどういう存在なのか、自分たちのやっていることは何なのか」という自己検証の上にたち、「どのような社会、どのような世界を創り上げていくのか」という展望を市民とともに考えていく実践は遅々として進んでいない。
こんなことを知った。
数年前、市民に発行する「議会だより」に、議案に対する賛成・反対の討論を掲載することになり、議員の氏名も公表しようということになった。すると某議員が「そりゃ、まずい。議会で反対したことだって、地元じゃ賛成と言ってきたんだで、票が逃げちまう」と。
議会のなかでの顔と地元での顔と異なる。その人のなかにある「壁」がそうさせる。
新国立競技場の予算が大問題になっている。次の東京オリンピックに向け計画されている新競技場の総工費は、252,000,000,000円。これだけ0が並ぶ。簡単に書くと二千五百二十億円。実際工事が始まればこの額には収まらないらしい。三年前のロンドンオリンピックのメイン会場が四つ造れる。こんなのを造られたんでは、他の普通の国はどこもオリンピックを引き受けられない。国民からは反対意見がぞくぞくと出ている。しかし、あとは野となれ山となれ、文科省は、メンツにかけてこの設計で新国立競技場をつくるという。二千五百二十億円、税金である。
巨大なプロジェクトがいったん動き出したら、もう後へ戻れない。反対意見も、異論もなにも聞かれることはない。そうしてにっちもさっちも行かなくなる。そうなっているのが原発。
いったん戦端が開かれると、戦争を中途で止めることはできない。一発の銃弾から第一次世界大戦は起こった。
今安倍政権の進める安保法制の道は、「一発の銃弾」が放たれる危険につながる。自衛隊員が歩むことになるかもしれぬその道を、国民は想像することができるだろうか。