日本の民主主義

 安曇野市という地方の市の政治を、この数年、見つめてきた。それは市民運動の側に立って現実を見ることから始まった。地方では、市政と市民の関係は物理的には近い。ところが、すぐそこに市長のいる市役所があり、市議会議場があるにもかかわらず、行政と市民の間には距離がある。国の政府、国会も雲の上の存在だが、地方も低くたちこめる雲の上だ。
 市民運動に参加すると実態が見えてくる。議員たちは党や会派という「閉鎖集団」、そして議会という「閉鎖集団」のなかで動き、官僚は庁舎という「閉鎖集団」のなか、市長の下で政策を執行する。が、最も現実に直面して苦慮している市民は、市政の遠距離にかすんでいる。安曇野市では産廃施設反対の住民は政策に深く関わることはできない。本庁舎建設にかかわって市民が集めた署名もなんのその、住民投票条例制定の請願は市議会は簡単に却下した。「請願」、すなわち「請い願う」という言葉自体、時代錯誤の、行政と市民の関係は上下の関係であることを示している。政治家たちの意識は自分は市民の上に立っている。
 いま、国分功一郎の「来るべき民主主義」(幻冬舎新書)を読んでいる。
 2013年5月、東京都初の住民直接請求による住民投票が、小平市で行なわれた。結果は、投票率が50%に達しなかったために不成立となった。半世紀も前に作られた1.4キロの道路計画を見直してほしいという住民の声が、行政に届かない。こんな社会がなぜ「民主主義」と呼ばれるのか、国分功一郎も住民運動をやってみて直面した「民主主義」の実態である。そこに述べられていることは、ぼくも安曇野で体験したことであった。

 <統治にかかわるほとんどのことを、行政が決めている。民衆はそれに関われない。私たちに許されているのは立法権にごくたまに、部分的に関わること(選挙)だけだ。それではとても『民主主義』とは言えない。民衆が実際の決定過程に関われないのだから。しかし、それでもこの政治体制は『民主主義』と呼ばれている。なぜか? 立法府こそが統治に関わるすべてに決定を下している機関であり、行政はそこで決められたことを粛々と実行する執行機関に過ぎないという前提があるからだ。この前提、主権は立法府にありと見なす前提があるために、実際に物事を決めている行政の決定過程に民衆が全く関われなくても、『民主主義』を標榜できるようになってしまっている。実に恐ろしいシステムである。主権者たる民衆は実際の決定過程からははじかれている。>

 国分功一郎の著書の副題は、「小平市都道328号線と近代政治学の諸問題」である。
 小平市の事例は、安曇野市の事例にも通じ、多くの地方政治に通じる。
 議会は行政にお墨付きを与える機関になっている。議会をそうするために、行政側は議会のなかに与党議員をつくり、それを強化する。
 市が民意を聞くためという諮問機関も行政にお墨付きを与える機関になっている。地域審議会なるものも、一応市民の意見を聞いたとしてGOサインの裏づけとなる行政の補完機関として使われている。地域審議会と住民はなんらつながっていない。住民はどんな決定を地域審議会がなして、行政に上げたのか、知らされたことがない。
 住民に最も近い地方政治でも、政治権力を恣意的に行使しようとして、隠された作為が行なわれる。地方では人脈、地縁が根強いだけに、行政は秘密裏の力関係に左右される。これが民主主義?
この著作は、多くの人に読んでほしい。

 ところで、国政。
 朝日新聞社説が、今日こんな主張をしている。要約すると、
 <特定秘密保護法案が衆院で審議入りした。安倍首相は、「喫緊の課題」と訴えたが、数々の懸念は解消されていない。この法案が成立すると、役所だけの判断で特定秘密に指定される情報の範囲が広がりかねず、いったん特定秘密に指定されるとチェックのないまま半永久的に隠されてしまうおそれがある。影響は、例えば、米軍基地や原子力発電所などにかかわる情報を得ようとだれかと話し合っただけでも、一般市民が処罰されかねない。福島県議会は、原発事故に関する情報がテロ活動防止の観点から特定秘密に指定される可能性があるとして、慎重な対応を求める意見書を出した。
 法案が成立すれば、政府全体で万単位の情報が特定秘密に指定されるとみられる。その情報を閣僚らが一つひとつ判断することは不可能で、結局は官僚の裁量に委ねられ、その是非を、外部から検証する仕組みはない。
 この国では政府が集めた情報は国民のものであるという意識があまりに低く、情報を共有する制度的な基盤が極めて弱い。この根本的な構造に手をつけないまま秘密保護の仕組みを入れてしまえば、国民の知る権利はますます絵に描いた餅になる。
 本来、知る権利を確保するための市民の武器となるのが、情報公開法と公文書管理法だが、いまの情報公開法のもとで市民が情報を求めても、明確な理由がわからないまま拒否されたり、開示された文書が墨塗りだらけだったりすることはしばしばだ。
 公文書管理法は、一定期間後に歴史的文書として公開するまでのルールを定めているが、このルールによって国立公文書館に移された政府文書は、保存期間が終わった約234万件の文書の1%に満たなかった。残りは内閣府などのチェックをへたうえで、未公開のまま捨てられている。
 米国では、公文書館の情報保全監察局長に機密解除の請求権を与えるなど、政府の恣意的な運用に幾重もの歯止めがある。
 こうした手立てのない特定秘密保護法案はまず取り下げよ。真っ先に政府がやるべきは、情報公開法や公文書管理法の中身を充実させることだ。>
 論説主幹・大野博人の主張は
 <最大の問題は「秘密についての秘密」だ。この法案によると、政府がいったいどんな情報を秘密にしているのかも秘密になる。法案は秘密にする情報をきちんと「特定」していない。しかも、時を経ても明らかにならない恐れが強い。
 また、どこからが秘密でどこからがそうではないのか、わかりにくい。やりとりをすれば法に触れるかもしれないという不安がある。そして、情報公開の仕組みは、まったく不完全なままだ。
 かつて情報統制が行きわたった独裁政権の東欧やアジアの国民は、政権に抵抗しようとすると弾圧され、日々何が問題にされるかわからない不安と、だれが味方で敵かわからないという相互不信でよどんでいた。
 日本にそんな空気を入り込ませないためにも、この法案は通すべきではない。>

 ここは国民、もっとしっかりしなけりゃ。なんでも「お任せ」という能天気が、原発事故を生んだ。まだ懲りずに「お任せ」を続けるつもりですか。