悪化する風景

 久しぶりに夫婦二人で出かけ、原村の八が岳美術館で、アイヌの解放運動家・宇梶静江の展覧会を見た。古布を使い針を一本一本手で刺して、アイヌ叙事詩を刺繍にした連作には、アイヌの守り神シマフクロウも出て来て、ウエベケレ(昔話)とアイヌユカラ(神謡)の世界を素朴に力強く表現していた。アイヌ民族の衣装には、ほれぼれする。自然神を崇め、争いを好まぬアイヌの世界観は感銘深いものだった。常設展の一つ、諏訪の地から出土した縄文土器展の芸術性にも通じて、日本人の「祖」の生き方が伝わってくる。地元出身の彫刻家・清水多嘉示の作品もよかった。
 美術館は八ヶ岳山麓の林の中にある。雪を戴く八ヶ岳の岩峰が近くに見え隠れし、ちょうど今落葉松(からまつ)の紅葉が真っ盛りで、高原は壮大な刺繍だった。
 美術館の近くに、ベルグという手づくりパンの工房があり、そこで歯ごたえのあるフランスパンを食べてコーヒーを飲んだ。
 一泊して蓼科の温泉にはいり、翌日ビーナスラインを通って帰ろう。観光シーズンも終わり、山もいくらか俗化の汚れを落としているかもしれない。霧が峰の車山の肩、ヒュッテ・コロボックルでコーヒーを飲んで、逢えるならば手塚宗求さんに逢えたらいいなと思う。だが、山の天候が思わしくなく、雲低く八ヶ岳蓼科山も隠れた。山は雨になりそうで、行くのはあきらめ、茅野から諏訪の街中を抜け、塩尻峠を越えて帰ることにした。
 茅野から諏訪へ、インターチェンジ近くの商業エリアは、美観という観点からすれば醜悪と破壊に堕し、ここを何度か通過したがいつもマイナス評価極限のモデルだと痛感する。われこそはと、はでな看板を空にそびえたたせ、けばけばしい色彩の大型看板と、立てられる限り立てた幟(のぼり)のはためき、建物は自然や他者と調和することなく、目立てばいいとばかり自己を主張している。調和も快いリズムもない騒しいだけの風景のなかでは、強調されるモメントが互いに否定しあい殺し合う要素となって自己を埋没し合っている。
 街がそうなっているということは、その地域に住む人びとが、この野放図な商業主義を受け入れているからでもある。しかし、このような景観を受け入れている人の意識と感覚は、この地だけのものではなく、現代日本人の意識と感覚でもある。それゆえ、景観の破壊は、田園地帯から高原地帯にまで、不協和音を広げる。白樺湖周辺、蓼科湖周辺、ビーナスライン沿線、そしてもつれた糸のようにからまる地域の道路際に展開する風景にも、人間の営為があとを残している。その野放図さ、全体観のなさが、風景の美を破壊、減殺する役割を果たす結果となっている。程度の差こそあれ安曇野も同じ方向に行きつつある。これが日本だ。
 日本の景観美の基本に、「借景」という理念と実践があった。それは消えてしまったのか。「借景」においては、そこにつくる建造物は、背景と調和して、背景と一体となる。建造物は景観をよりいっそう美しくするようにつくる。そして風景の美によって、その建物がそこに溶け込んで美しくなる。自然と人為は調和して美を生み、リズムを奏でる。調和のなかで活かしあう。オーケストラでは、演奏のなかに自己の演奏を溶かし込んで、自己を活かす。たくさんの自己がそれぞれ自己のパートを最善を尽くして演奏し、それらが調和したとき、壮大なシンフォニーが生まれる。ピアノを独奏するときは、ピアノの音と、音と音の間の静寂と、そして聴く人たち、その三者の調和が、音楽の世界を生み出す。
古からの日本人が持っていた美意識、美の感覚は、現代文明のなかで失われてしまったのか、あるいは弱められてしまったのか。共通した現象が日本の全土に現れている。
 安曇野についても思うのは、安曇野全体の総合的な美観を市民が描くことから始めねばならないということだ。環境は総合的に着実に悪化している。

 手塚さんの山小屋でコーヒーを飲みたいと思った。霧が峰の車山の西の肩にヒュッテはある。そのコロボックルヒュッテのオーナー手塚さんはたくさんのエッセイを書いている。手塚さんが霧が峰の稜線に小さな小さな山小屋を建てたのは青年のとき、1956年25歳だった。結婚して山に住み、そして子どもが生まれた。観光道路ビーナスラインはまだなかった。一家は山道を歩いて下の街から登った。
 父となった彼は、冬の朝、水場の氷を割る。北アルプスは波濤のように続いていた。ゆっくり炊煙をあげる小屋、仕事はたっぷりあった。薪を割る父親のそばに来て、言葉にならない言葉を話し、歌を歌う我が子に、「お前もまた、一本の強い樅になればいい!」と念願したその子は、もう還暦を迎え、ヒュッテのあとをついでいる。

 「十二月の霜枯れの曠野の中に、小さく建つ小屋のほとり、いつも強い南の風を受けながらも、とりわけ幹も太く、枝も大きく張った一本の樅の木が、深く根をはって立っている。この尾根の向こう、沢をいくつか越えた牧場のそのまたさらに向こう、南斜面の陽だまりの丘に建つ、旧交久しい友人の家からたった一本おくられてきて、小屋を建てた記念に植えた木は、けわしい表情でそそりたつ雪の仙丈や北岳、駒からの強烈な風に耐え、ふしくれだって七星霜を生きてきたこの樅の木だ。
夏の日にさわやかな緑陰をつくるのはいつになるかわからないが、冬枯れのとぼしい色彩の野にみどりを添え、雪のきらめく晴天になお高く、みどりを繁茂させる日を想うのだ。」(「邂逅の山」筑摩書房

 山小屋に住んで七年目だった。やがて開発の波が押し寄せる。ビーナスラインの道路ができて、観光化が俗化に拍車をかけた。手塚さんがエッセイにつづった一本の樅の木は、その後防風林として数を増し、吹きさらしの尾根のヒュッテを守っている。

 家に帰ってニュースを見ると、今日からビーナスラインは冬季の閉鎖に入ったということだった。もしそのまま霧が峰に登っていたら、途中から引き返さねばならないところだった。