子どもだけが感じるむさぼるような恍惚状態

 この季節になると、いつも生命のしたたかさと同時にはかなさを感じる。
 二、三日前、消え入りそうな命の透きとおるアカトンボが、陽だまりに飛んでいるのを見た。それからまた、木々の間を白い点のようなふわふわ飛ぶものがあり、よく見ればモンシロチョウだった。土の上に1センチほどの黒っぽい虫がおり、透きとおった翅を閉じたまま這っていた。
すでに霜が降り、雪もちらちら舞った。バケツの水に氷もはっていた。それにもかかわらず彼らは好天になって昼間の気温が上昇すると、どこからかまた現れる。この季節は、消え行く命が耐えられる限りは耐えて、最期が到来するまで小さな炎を燃やし続ける。死を待つのでもない。体の機能が停止して命が消えれば、それで終わりにしよう、愛おしく、静謐そのもの、ロウソクの火が消えていくように生と死がつらなっている。
 植物は、霜が来てから変化がはっきり現れたものと、まったく変化なしのものとがある。夏の間盛んな勢いで茂っていたドクダミは、たちまち葉の色が変わり、生気がなくなった。アジサイも葉の緑色が脱色して、しおれた。落葉樹は裸になった。ところがスイカズラは、葉は緑のままで、花まで咲いている。
 庭にフジバカマが咲いていた。昨年より花が増え、フジバカマの蜜を吸うアサキマダラが来ないかなと期待もしていたが目にすることはなかった。アサキマダラは、秋に日本本土から南西諸島・台湾への長距離の渡りをする。暖かい地方では越冬もする。アサキマダラを見ることなく、花は今ドライフラワーのようになった。
 今日当たり、多くの虫の命の消える日になりそうな、寒風が吹き続けている。もうトンボも蝶も生きてはいないだろう。
 ヘルマンヘッセの「クジャクヤママユ」は、子どものときに熱中した蝶の思い出を描いている。こんな一節がある。

 <蝶の採集は、ぼくが八つか九つの時にはじめた。十歳ぐらいになった二年目の夏、ぼくはすっかりこの趣味のとりこになってしまい、それがやみつきになって、そのためにほかのことを何もかも忘れてすっぽかしてしまったので、みんなが何度もぼくにそれをやめさせねばならないと考えたほどだった。蝶の採集に出かけると、学校へ行く時間だろうが、昼食の時間だろうが、もうまったく塔の時計が鳴るのが耳に入らなかった。休暇のときなどは、ひときれのパンを植物採集用のどうらんに入れて、朝早くから夜になるまで、一度も食事にも帰らず、外をとびまわっていることがたびたびだった。
 今でも特に美しい蝶を見かけたりすると、ぼくはあの頃の情熱を感じることがたびたびある。そんなときぼくは一瞬、子どもだけが感じることのできるあの何とも表現しようのない、むさぼるような恍惚状態におそわれる。少年の頃はじめてのキアゲハにしのび寄ったときのあの気持ちだ。またそんなときぼくは突然幼い頃の無数の瞬間や時間を思い出す。強い花の匂いのする乾燥した荒野での昼さがり、庭での涼しい朝にひととき、神秘的な森のほとりの夕暮れ時、ぼくは捕虫網をもって、宝物を捜す人のように待ち伏せていた。>

 「子どもだけが感じることのできるあの何とも表現しようのない、むさぼるような恍惚状態」
 ここを読むと、ぼくは遠くに置き忘れてきたそういう感情・感覚が記憶の底に残っているのを感じる。おい、お前はそこにいたのか。
 自分の中に生きつづけている命の恍惚。