キツネのねぐら

 圃場整備で道はみんな直線になっている。大型機械が入れて、作業が効率的にできるように、一枚の田んぼの面積を広げて正確な方形につくり、道路は広げられて直線に変えられた。
 自然界には直線がない。すべては曲線である。直線は人工的なものであり、だから都会は直線に満ちている。昔の村は、自然の摂理に従う環境だったから、曲線に満ちていた。村の道も、野の道も、曲線を描く。山麓の棚田の描く曲線は殊に美しい。
 自然界のすべては曲線。トンボもチョウも、サクラの花もヒマワリの花も、みんな曲線だ。人体は無論曲線。ビーナスの像、ダビデの像、若者の身体は美しい曲線をもっている。
 ぼくは小学生のころ、学校からの帰り道は、直線の表道を通らずに、裏道の曲線の野道を好んで歩いた。曲がりくねる細い道は楽しい。蛇行した小道を小走りに行くとき、ぼくは飛行機の操縦をしている気分になる。道の両側にはタデやエノコログサ、カヤツリグサが茂っている。バッタがキチキチキチと音をたてている。ぼくは両腕を横に広げ翼に見立て、ブーン、ブーンと言いながら家に帰って行った。
 曲線が生み出す美を感じるようになって、美的感覚も養われてゆく。子どものころに、美しいと感じることが多ければ多いほど、美の感性が豊かに敏感になる。部屋の中に花を活ける。無機質な空間がぱっと美しくなる。
 閉ざされた部屋に入れられた人が、窓から外を見る。雲が流れる。月が照る。鳥が飛ぶ。一本の木が葉を茂らせている。曲線の生命体、すなわち植物や鳥によって生きる力を得る話がある。強制収容所に入れられていたユダヤ人が、窓の外に見える一本のカスタニエンに生きる力を与えられたり、病の床にある人が窓の外のツタの葉に希望を感じるのも、曲線を描く生命体の力だった。
 だが、現代社会は、直線を謳歌する。経済性、効率性、便宜性を追って開発が進めば、曲線を駆逐する。
 けさ、この圃場整備された無機質な直線の世界を貫通する、味気ない直線道路に、キツネを見つけた。二百メートルほど離れたところに、じっと動かない黒いものを見つけ、キツネではないかと凝視していたら、座っていたキツネは立ち上がり、道路際の耕作放棄地に飛び込んで行った。長くて太い尾っぽが後ろに伸び、明らかにキツネだ。キツネの飛び込んだところは広い田んぼだが、大きなビニールハウスが破れてボロボロの姿をさらしている。人間の背丈を越す草が生え、すべて枯れ草になっている。その枯れ草にスズメがたくさんやってくる。たぶんキツネはその草地のどこかに穴を掘って住んでいるのだろう。皮肉なことに耕作放棄地が自然のスポットになっている。
 ふさふさの太い尾っぽから背中、頭と伸びて、キツネの躯体の曲線が疾駆する姿も美しい。