田淵行男と北杜夫、そして昆虫


烏川渓谷緑地事務所の展示室で見た鳥の巣


 田淵行男は、ヒバリが鳴かなくなったと嘆いた。春の野には揚げヒバリのさえずりが付きものだったが、安曇野には麦畑があるにもかかわらず、ヒバリの声が聞こえない。ぼくは安曇野に来て10年になるが、たったの一羽が空に舞い上がりさえずっているのを二回聞いたことがある。なつかしさと寂しさとが入り混じった気分で、空を見上げ、おいお前、仲間もいなかったら種族の保存は不可能じゃないか、とぼくはつぶやいていた。
 かつては夏から秋にかけて、キリギリスや秋の虫が草むらで盛んに鳴き声を競ってシンフォニーを奏でたものだが、今や鳴き声がほんのわずか。飛ぶときキチキチキチと音を立てたショウリョウバッタも見ない。日本の田園地帯で何が進行してきたか、詳細に観察したり研究したりすれば、恐ろしい実態が判明するのではないかと思う。昆虫を見つめてきた田淵行男が、「安曇野の挽歌」と言ったのは、その真相をつかんでいたからだ。蝶と山岳の写真家として評価されて「安曇野市名誉市民」になったのだと、市民の多くはそう思うが、ほんとうに評価すべきは、彼の生きざまと思想、考え方であろう。田淵が高山蝶にのめりこんだのは、その可憐な美しさとともに、氷河期から生き残り、峻烈をきわめる高山の環境を生き抜いてきた、その小さな命の姿があまりにもいとおしかったからだろう。
 東京大空襲の直後、田淵が穂高疎開してきたころ、東京から北杜夫が旧制松本高校に入学していた。北杜夫は戦時中、旧制麻布中学の生徒で、軍需工場に動員されて「お国ために」働いていた。彼は猛烈な昆虫少年だった。小学六年生のときからファーブルの「昆虫記」を読みだし、中学一年で岩波文庫の二十冊を読み切った。彼もまた高山蝶について書いている。田淵行男北杜夫も、高山蝶についてつづるとき、その文章は詩になり歌になり、昂揚感が満ちる。蝶を思い浮かべて心は高山にたゆたうのである。北の文章はこうである。
 「飛ぶことのできる花、あの高山蝶についても、ぜひとも記しておかねばならない。地味な、しかし柿色の紋によってその同類よりは遥かにひきたつベニヒカゲやクモマベニヒカゲは、花々のあいだからゆっくりと飛びたっては、また五色の海の中へおりてゆく。それに反してコヒオドシは、すばやく宙をよぎって岩の上に翅をやすめ、二、三度翅を開閉させたかと思うと、もう電光のように消えていってしまう。ミヤマモンキチョウは、太い黒帯を黄の衣装に対照させながら、クロマメノキのあたりをためらいながら飛んでいる。ようやくひとつの葉が気に入ると、彼女は腹を曲げて真っ白な卵を産みつける。それから、みやびやかなクモマツマキチョウ、風の精かともまごうこの上品な白い服をもつ小天使の前翅には、選ばれた山人がほんの何回か垣間見ることのできる、あのローゼンモルゲンの紅が輝いている。――寝ころんでいるぼくの前を、彼女らは次々とよぎり、花にとまり風に戯れ、その華美な衣装をひるがえしてみせてくれるのだ。この目で生きている彼女らを見るのは初めてではあったが、ぼくは彼女らを捕らえようとはしなかった。‥‥どんな神秘な偶然が、彼女らの翅にこれほどの斑紋の妙と色彩の渦巻きを作りだしたかを考え、見とれては恍惚となり、我にかえっては、彼女らのためにまたぼく自身のために微笑した。‥‥ぼくは彼女らを見つめる。その紅色のかがやきから、こまやかな翅のふるえから、ずっと以前、ぼくが粗末な網を手に、息をひそめ、彼女らの同類にしのびよった数限りない日々、草いきれ、強烈な夏の日ざし、少年時代の楽園がうかびあがってくる。忘れられたときめきが、微光のように、沈んでいた心の深みから呼び戻されてくる。いったい彼女らこそ、この世に生き残った最後の妖精ではなかろうか。あまりにももろく、あまりにもおだやかに、音もなく燃えたちながら、眼前をかすめ過ぎていく彼女らは? 彼女らに魂という観念を結びつけた太古の人々の気持ちが、同じようにぼくを領した。」
 この文章は、北杜夫の最初の長編「幽霊 ―或る幼年と青春の物語―」のなかにある。
 北杜夫は、松高で出会った先輩の辻邦生やドイツ文学教授の望月市恵から文学としての大きな影響を受けている。望月市恵は穂高町に住み、多くのドイツ文学を翻訳もした。トーマス・マンの小説は、北杜夫や小塩節ら生徒の心をとらえた。根っからの「昆虫少年」だった北杜夫は、「どくとるまんぼう昆虫記」を書いているが、そこに寮生活についてこんなことを書いている。
 「信州で過ごした幾冬かはほんとうに春が待ち遠しかった。信州ではなにもかも凍るのである。インクまで凍ることがあった。おまけに終戦後の食料難の時期ではあり、その寒気は脊柱にまでひびきわたった。私たちは南松本の工場の寮を借りて暮らしていた。ひどいボロ建築で、窓を閉めても隙間が一センチも開くのである。いくら目張りをしても、隙間風がどこからともなく吹きこんでくる。ある朝目を覚まして、かぶっていた布団から首を出してみると、天井からチラチラ白いものが落ちてくる。雪片である。」
 博学の北杜夫は、「昆虫記」のなかで世界をまたに、おもしろい話を繰り広げている。
 「食料難や私たちの愚行にかかわりなく、アルプスの峰々は、白銀に輝く。何もかも凍てつく冬が過ぎると、落葉松林は梢がぼうっと薄緑にけむりだし、ひと雨ごとにその柔らかな玉芽がふくらんでゆく。越冬したヒメギフチョウが姿を現し、カッコウが渡ってきて、谷から谷へとそのさびた声を反復させる。こうした自然を前にして、私はある条件がみたされれば、すなわちいくらかの米が手に入れば、愚行を中止してリュックサックを背負い、そのふところへわけいった。すでにすべての標本を失い(東京の空襲で)、満足な採集道具をもたない私は、以前のようにひたすら珍貴な昆虫をあつめようとする気を抱かなかった。私は灌木の葉を巻いている宝石のようなオトシブミの姿を無心にながめることができた。島々谷を歩いていると、水溜まりに集まった数え切れぬコムラサキが一時にぱっととびたち、紫色の渦巻きで私を包む込んでしまうこともあった。‥‥ときどき見慣れぬチョウの幼虫を見つけた。当時まだ生活史が明らかでなかったヒョウモンチョウの幼虫らしかった。その幼虫を寮に持ち帰ったけれど、人間も飢えている瘋癲寮では幼虫を育てることは難しかった。」