記憶が消えた

 もらってきた木のチップを庭の土にいれ、家に入ったところ、どうも頭の調子が変だなと思う。昨日の夕方のことだった。なんとなく頭がぼんやりして、霞がかかったような感じなのだ。5時を過ぎて外は暗くなっている。インターネットを開き、ワードで文章を書きはじめると、はっきり変だということが自覚され、
 「どうもおかしいよ。記憶がおかしい」
と家内に告げた。
 まず御近所さんの名前が全部出てこない。はっきり頭に浮かぶ名前と、なんとなく浮かぶのと、まったく出てこないのと、状態はおおまか三つに分類できる。名前は出てくるが、苗字が出てこない人もある。日ごろから付き合っている親しい人でも、名前の出てくる人と出てこない人とがある。こりゃ、やばい。どうなったのか。
 それでもその状態のままワードを開いて、ブログに書く原稿をぼんやりした頭で書いていた。が、途中ではてと考え込んでしまったのは、正確な時間経過の記憶であった。いつ、何時ごろ何をしたか、時間軸にそって、前日からの行動をチェックしようとしたら、あれれ、どうだったかな、と不明がぞろぞろなのだ。これはえらいこっちゃ。脳細胞が、ごぼっと、固まりでつぶれてしまったのかもしれん。
 ぼくは真剣に、
 「お隣さんは、○○さん、その隣は、えーっと、何という名前だったかな、えーっとえーっと」
 一部破壊された脳細胞を想像しながら、ぼくは記憶を引っ張り出そうとする。
 以前にもこういうことがあったなあ、と思う。頭の中が空白になったように思ったことがあった。それを覚えているということは、この記憶は残っているということなのだ。
 「あや子さんから追加の柿をいただいて、チップをもらいにいって、帰ってきてチップを庭にいれ、そこまでは、脳に霞がかかっていなかったなあ」
と言うと、台所で家内は、
 「水分、摂った?」
と、食事作りの手を止めて言った。
 「ははーん、水分なあ。摂ったかなあ、どうやろう。摂っていないぞう」
 ぼんやりした記憶だが、4時間ほどお茶を飲んでいなかったように思う。あまりのどが渇かなかったから、飲まなかった。
 それが頭の状態に関係しているのかなあ。しかし変だなあ。前兆なく脳細胞が突如瓦解することがあるんだろうか。高齢になればあるかもしれないなあ。
 それから夕御飯を食べ、秋田の濁り酒を少し飲んだ。1時間ほどして入浴をすませた。そのころから、少し変化が起きた。出て来なかった御近所さんの名前が次第に出てくる。
 「血圧、計ってみたら」
 家内にそう言われて、そうだ、と思い、簡易の血圧計を取り出して、ベルトを腕に巻き、スイッチを押した。ブーンを小さな音を立ててベルトが上腕を強く締め付け、計測値が画面に現れる。
 「上が107、下が70だよ」
 「さっきはもっと低かったかもしれないねえ」
 「ふーん、そうだなあ」
 この突如の記憶喪失というか健忘症というか、この症状は血圧、血流が関係しているのか。よく分からないが、自分の体の中で、なにやら起こっているのかもしれない。夜寝る前には、御近所さんの名前はほぼ全部思い出した。しかし名前が以前のように記憶になじんだ密着感がない。
 一晩寝て今朝6時、平常どおり、ぼくはランを連れ、ウォーキングパトロールの黄緑の帽子をかぶり、腕章をつけて、村の道を歩いた。小雨が降っていた。学校へ行く子どもたちに挨拶を交わした。子どもたちもランに近寄ってくる。
 記憶は元にもどったようだ。一安心だ。ポストにマルちゃんからの手紙が入っていた。海三郎君とマルちゃんが来春やってくる。北アルプスに雪がある、薪ストーブを囲んで思い出話、白鳥もまだいる、いい季節だよ、おいでよ。