市議会と市議会議員


 「北欧などの地方議会では、議員は別の仕事をしながらのボランティアということが多いですね。ですから、職業政治家、職業官僚が本当に必要なのかは、一度きちんと見直した方がよいと思います。」
 鈴木健(学術博士 自然哲学)がこう言うと、養老孟司がこんなことを言った。
井上ひさしさんが『ボローニャ紀行』で書いていましたが、ボローニャ市行政を回しているのは地区住民評議会で、夜7時から始まるそうです。評議員は、レストランを経営しているオヤジなど、すべてボランティア。国の予算をいっさいもらっていない。日本に欠けているのは、そういう感覚でしょう。『国が何とかしてくれない』という愚痴をよく聞きますが、国がやってくれなければできないと思っていることが問題なんでしょうね。‥‥今後は人口が減っていくから、官僚機構を徐々に縮小することを大目標にした方がいい。固定の職に専属で人を貼り付けておくと、社会全体で相当なロスが出るでしょう。」

 二人の対談は、「文系の壁 理系の対話で人間社会をとらえ直す」(養老孟司 PHP新書)のなかにあった。

 日本では、町の普通のおっちゃんや、おばちゃんだった人が、議員になった途端に、その人の意識が変わるようだ。いわゆる「箔(はく)」がついたように、庶民の一段上に立ったように思うのだろうか。「箔」とは、金箔とか銀箔とかいう言葉の「箔」、ひじょうに薄いもので、物の表面に貼り付ける。いずれははがれ落ちるものだが、選挙で当選した途端に、「多数の民意によって選ばれた」と、もう「偉いさん」になったかのように錯覚する。議会の議場もそれに見合うように、権威の場として税金をつかって豪華につくられる。「誇り高き」議員は、ばりっと服装をととのえて、「二頭立ての馬車」ならぬ車に乗って登庁する、というわけだ。議員たちは議場の席に鎮座し、政策を決定し、それで行政が動いていくから、やっぱり「権威」ある仕事だ。そして「君臨するもの」という錯覚に取りつかれる。その議員集団のなかで、党派として多数を取ると、「権力者」の意識が芽生える。そして議会という城の中で、実権を握ろうと画策する。
 しかし議員たちのなかには、そうならない市民派の人もいる。その議員たちは、はいつくばって草を刈る老婆と話を交わしているし、野の道を一時間かけて登下校する子どもたちの姿も見ている。学校へ行けないで、家にこもっている子どものこと、暗くなった道を歩いて、スーパーの食品価格が値引きされる時間に買い物に行く高齢者の気持ちを知っている。そしてまた、自分も一介の市民として市民運動に参加する。
 だが、権威主義者たちは、市民運動のなかに姿を見せることは全くない。だからほんとうの民意は権威主義者たちの占める議会になかなか反映されない。
 政治学者の吉田徹(北海道大学教授)が、今日こんなことを言っていた。
「代表制民主主義は、いわば民意の『風景画』を描くようなものです。画家が色を加えたり、遠近感を演出したりして、風景を再現するがごとく、民意を政治の場で表現するための翻訳力、意訳力こそが政党の底力です。」
 選挙で勝った我々こそが民意だとばかりに振る舞うのはとんでもない勘違いだ。ひょっとして、むしろそれは分かっていて、権力を行使できる場に立つと、権力行使の甘い魅力に動かされる。それを自覚しながら、やっているのかもしれない。
 外国の地方政治を研究をしている人たちがいる。ちょっと調べてみて知った。井上ひさしが言った、イタリアの地区住民評議会。注目されてきたボローニャ市政治の地区住民評議会は、直接民主主義や市民参加という伝統を受け継ぎ、「抵抗の牙城」になっていた。ある研究者は書いている。
ボローニャの地区自治の経験は、日本の『市民参加と協働』による地域自治形成の課題に対して、有意義な問題提起をしている。‥‥市民団体と連携した自然公園の復元事業、マイノリティの子どもたちの修学支援や就労支援、地区内で空き家のまま残っている旧富豪邸宅の買収および文化施設としての保存と活用。イタリアの地方分権改革による教育システムへの影響を整理し、その影響が地区住民の学習文化活動にどう影響したのかを地区住民評議会の活動実態と関係付けながら考察している。」
 わが市には、「審議会」というシステムがあるが、それが民意を反映する機関であるとタテマエで言っても、そのメンバーが「縁」による選出であったり、メンバー選定に行政が関与したりしていて、やっぱり市民から遊離した形骸化した組織になっているように思える。
 現実を凝視し、未来を考察していく議会や行政にしていくには、市民の意識を喚起していくことなんだが……。