デモクラシーの形骸化

 

 

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 小田は、阪神大震災の被災者として街の復興を考え、車がないと用がたせない都市は都市ではない、亡くなった人びとの記憶、そこに生きた人々の長い歴史を大切にしながら、麗しい街の復興をめざそうとした。神戸松南地区の住民は自分たちで「復興町づくり憲章(案)」をつくった。生き残った者の体験を掘り起こし、震災前の街の記憶を呼び戻す。そこから憲章を練った。過去を捨て去るのではなく、住宅を確保し、災害に対してしなやかに強い街をつくろうと。だが住民の憲章は生かされることなく市の計画は進められた。傷ついた人が未来へ生き続けるための必要条件とは何なのか。小田実は、「日本の民主主義は形骸化している」と痛烈に批判した。

 日本の行政はどうなっているのか。哲学者、国分功一郎は同じような体験をしている。

 東京小平市武蔵野台地の西側に位置して緑が濃かった。公園にも玉川上水の遊歩道にも豊かに木が生い茂り、都営住宅を雑木林が覆う。この緑の街に魅かれて国分功一郎は移り住んだ。ところが街の雑木林をつぶして道路を建設するという行政案が出た。国分は行政の説明会に行ってみると、それは住民の理解を得たという名目の手続きのための説明会だった。主権者の市民の意見は決定過程からはじかれている。国分の活動はそこから始まり、住民運動は裁判闘争にも発展するが、市は行政プランを進めた。国分は、主権者たる国民が決定権を持ちえないで民主主義と言えるか、と形骸化した政治を批判した。(著書「来るべき民主主義」)

 国分功一郎は、こんなことを述べている。

 複数の人間が集まって、何かひとつのものを決めていくとき、ある人はとんがった屋根をいいと言い、ある人は丸い屋根がいいと言う。収拾がつかないから、多数決で決める。それがぼくらの常識だった。しかし、そうする必要は必ずしもないということが実践で分かってきた。

 一緒にいろいろやっていて、一定のプロセスを経ると、それなりにみんなが満足するものができる。参加する人たちの間で、ひじょうに不思議なケミカルな変化が起きる。住民運動に参加したとき、人々の理想、主張はそれぞれ違う。そこでは自分の不同意な意見とも出会う。でも一緒に運動をやっていく中で話し合いをしていくと、みんなの考え方が徐々に変わっていく、ケミカルな変化が起こって前に進んでいく。その中でそれなりの最適解が見えてくる。意見の不一致があるから多数決でということにならない。

 国分の言うこのような討議の過程を体験した人は、現代社会では少ないかもしれない。とことん討議するという習慣がない。討論、ディベート、ディスカッション、という場を地域社会に持つとか職場で体験することは皆無と言えるかもしれない。学校の教育の中では一方通行だ。「意見の出し方」、「意見の聴き方」を学校教育の重要な柱にならない日本の学校ではデモクラシーの基本が養われない。

 政治の世界は多数決、勝ち負けの世界になっているから、市民の中から意見を言う気も起らなくなっている。これが恐ろしい。