国民に課された不断の努力とは 

 金を貸したところ相手はいつまでも返さない。催促しないでいたら時効になり、債権を失ってしまった。
 政治学者、故丸山真男は、学生時代に教授から聞いた時効についての話を持ち出して、日本の民主主義について書いていた。60年日米安保条約締結をめぐって激しい反対運動が湧き起こっていた時代だった。権利を持っていても、権利を行使しなかったら、権利は時効によって喪失してしまう。このことから丸山は話を展開する。
 日本国憲法第12条には、
 「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」
とある。この規定は、基本的人権が「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であるという憲法第97条の宣言に対応している。
 この条項に含まれている精神とは何か。丸山はこう読み替える。
 「国民は今や主権者となった。しかし主権者であることに安住して、その権利の行使を怠っていると、ある朝目が覚めてみると、もはや主権者でなくなっているといった事態が起こるぞ」
 大げさな威嚇でも説教でもなく、西欧民主主義の血塗られた道程が指示している歴史的教訓なのだ、と丸山は過去の事例をあげたうえで、
「自由は置き物のようにそこにあるのでなく、現実の行使によってだけ守られる。日々自由になろうとすることによって、初めて自由でありうるのだ」と述べていた。
 憲法にある「不断の努力」というこの言葉、そこには重い意味が込められていた。不断の努力なしに自由も人権も守られないぞと、憲法は国民を叱咤していたのだ。
 思い起こせば、1945年から今日まで、たくさんの政治運動、労働運動、教育運動、社会運動、人権闘争があった。ぼくもこの時代を生き、そこに一人の民として加わってきた。労働者、学生、市民による国会包囲デモ、日比谷公園を埋め尽くす10万人デモ、行政との団体交渉、裁判闘争など、仲間と共に、同志と共に、保持すべき自由と権利のために、国民の不断の努力を続けてきた。それはまた、痛みや苦悩をともない、落胆と希望に揺れ、矛盾に迷うこともある闘いだった。
 整然と御堂筋の側道をデモしていたにもかかわらず、機動隊員に暴力を受け負傷したことがあった。水俣病を引き起こしたチッソ株主総会に参加したときは、暴力ガードマンに髪の毛を引き抜かれ体中を蹴られた。
 丸山はこう続けた。
 「自分は自由であると信じている人間は、不断に自分の思考や行動を点検したり吟味したりすることを怠りがちになるために、実は自分自身の中に巣食う偏見から最も自由でないことがまれではないのです。民主主義というものは、人民が本来制度の自己目的化――物神化(人間が自らつくりだしたものや制度が、大きな権威でもって、逆に人間を支配するようになること)――を不断に警戒し、制度の現実のはたらき方を絶えず監視し批判する姿勢によって、初めて生きたものとなりうるのです。それは民主主義という名の制度自体について何より当てはまる。つまり自由と同じように民主主義も、不断の民主化によって、かろうじて民主主義的でありうるような、そうした性格を持っています。民主主義的思考とは、定義や結論よりもプロセスを重視することだと言われることの、最も内奥の意味がそこにあるわけです。」

 今の日本、政治のプロセスに民主主義はありや。政治家に日本の未来を展望する精神ありや。国民に不断の努力ありや。
 明治維新から15年戦争へ、戦争の道を驀進し敗北した1945年までの日本の歴史、敗戦以降の新憲法のもとで世界の恒久平和を目指した日本の戦後史、翻弄される民主主義、そこに今、特定秘密法案が出されている。