淀川中学校2期生同窓会<1>

 久しぶりに特急「しなの号」に乗って木曽路を下ったのは先週土曜日だった。木曽谷の両側に吹き出た新緑の山肌が、列車に近づいたり遠ざかったりしながら続いていく。何度も通った木曽路だが、この季節ならではの広葉樹の一斉萌芽、賛嘆の声を飲み込んでひたすら眺め続けた。今年は雪が多かった。木曽駒ガ岳と御岳山の雪嶺が、緑の谷の向こうに輝いている。名古屋で新幹線に乗り換えて大阪に向かう。岐阜羽島駅を通過する。ここは3年前まで、6年にわたる濃厚な思い出の場所だ。日中技能者交流センターの研修所がちらりと一瞬見えた。中国の青年たちと暮らしたなつかしい日々がよみがえる。
 土曜日から翌週月曜日にかけての3日間の旅は、淀川中学校2期生の開催する同窓会に出席することが目的だった。ぼくは淀川中学校で初めて教壇に立った。3年後彼らは卒業して出発していった。
 その夜は神戸の息子の家に泊まって、日曜日は息子家族みんなで新緑を味わいに六甲山に登った。青年の時代に岩登りの練習やハイキングで登った六甲は、今は木々がうっそうと茂り、したたる緑に陶然となった。夕方、同窓会会場に向かった。
 ホテルの大広間には、卒業して50年になる淀川中学校2期生がすでに6、70人集まっていた。当時の同僚教師たちは5人来ていた。定例化した同窓会は12年前から始まり、3年に1度開催されている。今回は5回目。すべて卒業生たちが計画し実行に移している。白髪頭にはげ頭、あなたは誰? とたずねなければ分からぬ人が圧倒的だ。進行役の後藤君が、「この場に出席できず、世を去った十数人の同窓生に黙祷を」と提案し、全員で黙祷を捧げた。一緒に山に登った時実君の顔が頭に浮かぶ。時実は3年前ガンで逝った。
アコーデオンを肩にかけた男性がぼくのところに来た。ああーと叫び声が出た。坪井君だった。1年生のときから登山部のメンバーとしてぼくの後について山に登り、2年生のときぼくのクラスの委員長になって、クラスをリードした。アコーデオンの演奏が得意で、毎朝、学級活動の時間になると、彼が伴奏してクラスみんなは合唱をしていた。朝の職員朝礼が終わって学級へ向かうと、階段の途中からアコーデオンの音と合唱が聞こえてくる。彼の生真面目さは見事と言うしかなかった。中学を卒業してから彼とは長く無沙汰の時期がつづいたが、一度大学生になってやってきた彼は学生運動に打ち込んでいた。そしてまた無音がつづき、次に会ったとき、ぼくは礼を欠く出来事を引き起こし、それが二人の関係を切り裂いてしまった。それ以降、再会は決定的に不可能だと思ってこの日までやってきた。その彼がいま、目の前にいる。アコーデオンを肩にかけて、笑顔の彼がいる。ぼくの口から飛び出したのは謝罪の言葉だった。
 彼は、ステージで数曲演奏し、みんなで歌った。初めの歌は「北帰行」だった。中学2年生のクラスで、この歌も歌っていた。たぶんそうだった。
 同窓会のなかに、こんなサプライズを仕組んであったのだ。ひさしぶりで、ぼくは声をはりあげて「北帰行」を歌った。
 今回初めての参加者のなかに、著名人となった里中満智子さんがいた。中学時代、知的でおませだった彼女は、ワンパク連中に催眠術をかけたことがあった。かけられた当事者の森田君も来ていたから、二人を呼び寄せてそのことを話すと、満智子さんは
 「あのときは、先生から叱られました」
と言う。ぼくはそのことで叱った記憶はなく、今はそのことの良し悪しとかではなく、むしろそういうこともあり得た当時の学校がなつかしかった。
 文芸評論家になった海三郎君とは、現代社会の情況を話しあった。話したい人がたくさんいたが、思いに任せなかった。