加美中学校41期生同窓会

 にぎわう心斎橋筋から東へ入っていったところにあるお店が会場だった。よくまあ、集まってくれました、62人。25年ぶりに会う人たちのほとんど、だれがだれやらさっぱり分からない。全員名札をつけてくれたから、それを見て、よう、○○君、とか名前を呼ぶ。
 「先生、ほんまに覚えてくれてる?」
 「うん、だんだん、昔の顔がよみがえってくるで」
 「ほんまあ?」
 中には、中学時代の顔がそのまま大人になったような「女の子」もいる。
 「いやあ、変わってないねえ。子どもさんは?」
 「3人います。上の子は高校生です」
 「そう、結婚早かったんやねえ」
 40歳の彼らの顔が、次第に中学時代の生徒の顔にもどってくる。その顔に名前が一致しだすと、脳の奥底に隠れていた記憶がじわじわ意識の表面に浮き出てくるような感覚があった。おてんば娘だったT さんは、ビールを飲んでますます元気だ。
 「Tさんは、宿泊活動のとき、男風呂のぞいてたなあ」
 アッハッハッハ、Tさん大笑い。
 中学時代の顔や名前が思い出せない人は、マキちゃんから借りている卒業アルバムを見ながら、
 「何組だった?」
と聞く。どれどれ、ああ、△△君かあ、と確認する。
 何組だったか覚えていない人もいる。
 中学時代よくおしゃべりして活発だったユキちゃんは中国上海に店を出していた。同窓会に参加するために帰ってきたという。
 「日本に帰ってきたら、ほっとします。外国では積極的にスピーチしないとやっていけないから、いつも気がはっていますよ」
 卒業アルバムの写真にはヤンキースタイルで写っている子がクラスに数人いる。
 「ほんまにヤンキーが多いわあ」
 遅れて来た男前がぼくの前に立った。ええっと、誰だったかなと一瞬思ったが、彼が名乗るのを聞いて、
 「マスオー。会いたかったぞ。ずっとお前のこと気になっていたぞ」
 ぼくは叫んで仕事服の彼の手を握っていた。マスオは中学時代やんちゃ男だった。少し話したが彼は口数が少なく、今日もなんとなく影がある。仕事が入っていて長く居れないと言っていたが、窓際のテーブルのところへ行って誰かと話し出していた。
 みんなにお酒がだいぶ回ってきたところで、あいさつしてほしいと進行役がマイクをもって来た。
 「この25年、ぼくも大遍歴でしたよ。学校つくろうと思ってねえ」
とぼくのたどってきた道を紹介し、
 「ワタナベー」
と大声で叫ぶと、爆笑。ワタナベは猛烈な残業で働いてきてやっといい人と結婚できた。
 「ワタナベ、コウタロウ、マツバラらと乗鞍高原にスキーに行ったこともありましたよ。ぼくはその麓にいま住んでいます。今黒豆つくっていましてねえ、黒豆の味噌も家でつくりましたよ。これからタマネギの苗植えます。今年の夏はトマトよくできましたよ」
 ぼくは次々とアルバム片手にあいさつして回った。
 しばらくしてマスオを見ると、彼は窓を開けて誰とも話さず、ひとり外を眺めている。なんとなく寂しく孤独な感じだ。気になった。話しに行こうと思っていたら、彼はすうっと出口に行ってもう戻ってこなかった。何かある、悩みか何か、しまった、話を聞くべきだったと思う。
 円卓の周りに集まっているグループはよく飲んでいた。そこにごつい顔の男が目立っている。あれは誰だったかな、と訊くと、イサオだと言う。イサオ? あのヤンチャクレのイサオだとー?
 「イサオー、よおー」
 「バカヤロウや、ようおこられたイサオーやあ、センセイ」
 イサオは、まじめな働き手になっていた。個人経営の仕事を立ち上げ、社長になっていた。
 「今までいろいろあったでえ、苦労したでえ、もうあかんと思うたこともあったでえ」
 痛い目にあいながらも人生の教訓を体験から得て、一人前の男になっていた。
 加美地区には零細企業、個人の町工場が多い。卒業生たちは、大きな企業や公務員になるのではなく、地元に残って小さいながらも経営者になっている子が多い。元ワンパクたちもそうだった。マスオもそうだし、ノボルもそう、同窓会に参加できなかったから次の日に会ったマサルや、彼らの先輩のシンジもそうだ。
 午後1時に始まり、4時半に終わった同窓会。これを企画し、成功に導いた立役者マキちゃん、そしてチーコ、平沼君の存在は大きかった。発起人になってくれた人たちの尽力に目を見張る思いがする。
 「よくやれたねえ。これだけの同窓会、たいしたものだよ」
 奇跡の同窓会だと思う。
 「10年後またやろう」と言う。10年後? うーん、どうかねえ、生きてるかねえ。
 彼らが書いて贈ってくれた寄せ書きの中に、
 「まだまだ死ぬなよー」
というワタナベの文字があった。
 「10年後また会いましょう」
の文字もあった。