ハギさんが逝った


 一昨年、マルちゃんの手紙で、ハギさんがガンの手術を受け療養しているということを知り、ぼくはそれを心に置きながらハギさんにお見舞いの手紙も書かずにいた。半年近くたって、かつては親しい友人だったハギさんに、何の連絡もしないのかという思いがわき、見舞いと励ましの手紙を書いた。マルちゃんは、ハギさんとぼくとが新任教師として、1960年に赴任した大阪市立淀川中学校での教え子だった。
 ハギさんから返事が来た。旧友からの思いがけない手紙が嬉しかった、旧友はいいものだな、と書いてあった。彼は、ぼくが昔住んでいた町の病院でガンの手術を行ない、声帯を失っていた。音楽の教師だった彼は、定年退職後はオーケストラのコントラバスを弾いたり、地元の合唱団の指導をしたりしていた。声を失い、抗癌剤治療を受けているけれども、活動はしているということだったから、ひとまず安堵した。
 折り返し、手紙の末尾に書いて、あったメールアドレスに返事をした。
抗癌剤での治療、大変だねえ。苦しくつらいねえ。でも、合唱の指導に行けてるのが救いですよ。早く、抗癌剤から脱出できることを祈ります。がんばれ!と言いたいが、がんばらないで、体の自然の声にしたがって、心は悠然と生きようよ。ぼくのブログにちょっとハギさんのこと書きました。のぞけたらのぞいてください。」
 そうしたらハギさんからメールが来た。
 「野の学舎 読ませていただきました。有難うございます。物言わぬ動物だっているんですから、我慢しなければねなんて思っています、今は、積んどく、置いとくの本を読んでみたりしています。10株植えた庭のサツマイモが生い茂っています。明日で9月、月日のたつのが早すぎます。終点に突入かと不安になることもあります。」
 サツマイモ、10月には掘って食べたか、ハギさん。
 そしてまた月日が流れた。
 先日、マルちゃんから手紙をもらった。ハギさんが亡くなったと書かれていた。昨年、すでにハギさんは亡くなっていた。
 ハギさんの家に電話をかけると、娘さんが出てこられた。命日は12月14日、ホスピスで息を引き取ったということだった。
 1960年、ハギさんは広島からやってきて大阪の淀川中学の教諭になった。ぼくもその学校に同じ新人で、教師としての出発をしたのだった。あの多感な青年教師時代、二人は喫茶店に入って教育談義をし、よく飲み屋で飲んだ。自発的自主的な学級集団づくりで彼と競い合いもした。初めての卒業式は、まだ講堂がなかったから青空卒業式だった。ハギさんは、式を通してBGMにベートーベンの田園交響楽を流した。それは冷気を含んだ外気と澄んだ青空と大地に木の椅子を並べた卒業式の雰囲気にぴったりと調和した。
 新米教師になって二月たった6月15日、安保条約反対のシュプレヒコールが国会を包囲する中、デモ隊と機動隊とは激しく衝突し、東大文学部学生・樺美智子が殺された。そして10月、演説中の日本社会党の党首浅沼稲次郎は右翼活動家の若者に短刀で暗殺された。
 ぼくとハギさんは、大阪城公園で開かれた追悼集会に行った。何千人か何万人か群衆が集まっていた。壇上でのアコーデオンの演奏がスピーカーにのって流れ、「同志は倒れぬ」の歌が会場を覆った。ハギさんは、手帳らしきものを出して、初めて聴いた悲しみをこめて重く流れるその曲を採譜していた。

1 正義に燃ゆるたたかいに 雄々しき君は倒れぬ
  血に汚れたる敵の手に 君はたたかい倒れぬ
  プロレタリアの旗のため
  プロレタリアの旗のため
  踏みにじられし民衆に 命を君は捧げぬ
2 冷たき石の牢獄に 生ける日 君はとらわれ
  恐れず君は白刃の 嵐をつきて進みぬ
  プロレタリアの旗のため
  プロレタリアの旗のため
  重き鎖をひびかせて 同志は今や去りゆきぬ

 ハギさんと暮らした青年教師の時代から半世紀以上がたった。転勤して教育実践の舞台が変わるにつれ、二人の関係は遠ざかっていった。しかし遠ざかっていったのは自分の思いの世界であって、遠ざかる必然性は何もなかったのだ。今それに気付いている。